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(無題)

 投稿者:nori  投稿日:2004年 8月13日(金)16時37分19秒
  やすきよさんへ
>occupationを捉えていくことと,機能障害を捉えていくことと,どちらかが重要であると本当に断言できるのでしょうか?そして,occupationを捉えることがもっとも重要といえるでしょうか?

occupation というよりは、根本的な2つの違いは、人を第一の分析対象として捕えるか、それとも障害を分析対象にするかの違いです。ICFでいえば、分析するものはあくまで「障害、疾病」であり、それがいかに人や環境に影響するかで、一方は、人と、その人の持つ健康上の問題の関連性をみていくということです。鶏かたまごかみたいな言葉遊びのようにも思えますが、重要なポイントだと思うのです、実習ではバイザーによって、ケーススタディでICFをひっくり返してHandicap(昔で言う、今ではparticipationでしたっけ?)から分析するように指導してもらったこともあるのですが、これも人を中心に見ていくための工夫と思います。
 

(無題)

 投稿者:nori  投稿日:2004年 8月13日(金)16時17分42秒
  奥田さんのおっしゃる

>occupation is life!」と声が上がり、同意する人達から拍手が沸き、何か感動しました。

というのが今のoccupationの解釈に近いと思うんです。ま、これは私の個人的同意かもしれません。その人の人生にとって、意味あることや価値をおくもの、ひいては人の存在する意味、満足や心地よさを得られるものが、occupationでもあると考えます。Beingもoccupationのひとつとしてごく自然に捕えられていると思うのですが、Occupation=作業、という翻訳は、何かをするdoingのみの印象が強く感じられます。しかし、occupationの英語での解釈の変遷を考えると、翻訳をした時代では作業が一番言い得ていたとは思います。

日本人にはoccupationがないというより、何がしたいか等の意思が意識上にきわめて上がってこないのではないでしょうか?私達日本人は、個人的主張より、集団(家族、地域、)に併せていくことが第一で、その枠の中で自身のあり方、価値や意味合いを見出すことが多いと思うのです。

日本語での文化はどうしても「日本文化」や「西洋文化」みたいな使い方になりますが、英語で言う文化は個人同士の違いもcultureですから、ある意味人の人生そのものもその人のcultureだと思います。以前は私も「西洋文化」は個の文化と思っていましたが、イタリア系など極めて家族主義ですよね。

occupationを呪縛と捕えるとか西洋文化からの抑圧とかかんがえだすと、OTそのものも、西洋起源の概念ですよね。せっかく世界中にOTがいるのですから、いかに人の存在価値や人生がいかに違うかを知り合うひとつのキーワードとして捕えればいいのではと思うんです。
 

文化

 投稿者:藤本浩子  投稿日:2004年 8月13日(金)01時30分50秒
  やすきよさん

「コトバは思考を制約します」「occupationという用語の呪縛を解く」という考え方、賛成です。occupationという用語の呪縛を解く、ということ自体が西洋文化から抑圧されている考え方から解放するということになるのかもしれません。

やすきよさんはoccupationという概念は「時代によって揺れ動いているもの」と言われていますが、当然その可能性も大きいと思います。しかし、私はもしこの時代にとって重要なのであれば、私たちはそれを追求して理論化していく必要があると考えます。私が考える理論やモデルは、時代や文化を越えた普遍的(ユニバーサル)なものではなく、それぞれの時代や文化に根ざし、それを利用する人の生活を反映するべきものです。

私も奥田さんが海外青年協力隊で経験したのと同様、小さい頃から海外に住み、今も海外生活をしており、日本と西洋の間を行ったり来たり、文化に非常に敏感です。私の実体験からは、「文化なんて嘘っぱちだ」では済まされない大きな違いがあります。フェミニズムでは、文化的な性(ジェンダー)から解放しようとしているだけで、「文化」そのものを否定しているわけではないように思います。

ここで言う「文化」はちょっと違うのかもしれませんね。中村川さんが言われているような米国と日本のお年寄りの生死に関する考え方の違いなど、それを無視して私たちが臨床に携わると彼らそのものを否定してしまいますよね。フェミニズムが女性を解放するのと同様、文化に抑圧された人達を解放するために、「文化」の考え方があると思います。特に日本人の場合は(私の考えですが)、西洋から入ってきた文化と、日本本来の文化が複雑にからみ合い、物ごとの価値基準がすごく曖昧だと思います。

どう思われますか?

 

(無題)

 投稿者:中村川  投稿日:2004年 8月13日(金)00時52分34秒
   あー、新しい投稿に気付かず流れを止めてしまいました。
すみません 続けて下さい
 

日本人のOccupation

 投稿者:中村川  投稿日:2004年 8月13日(金)00時47分43秒
  藤本先生
 はじめまして。
 ‘日本にはOccupationが無いのかもしれない’、衝撃です。
立て続けで申し訳ありませんが、私も意見を書かせて下さい。

 以前、エリクソンの老年期を読んだのですが、アメリカの老人は、老いや死の現実を
若い世代との結ぼれを意識する事で統合しようとする、とありました。
そして、何かを積極的に継承しようとしたり、持ち物を与えるなどして、
連綿と続く命の系譜に自分を乗せる事で安心感を得ると。
これを読んで、自分の周囲のお年寄りに当てはめてみようと試みた事があったのですが
日本人はやはりアメリカ人とは違う・・・というのが私の感想でした。
なんというか、日本のお年寄りは、子孫に対する愛情はあるけれども
エリクソンの老年期に出て来る老人のようには、それほど世代間の結ぼれを意識していない
感じがしました。はっきりいって、「後はあんた達でどうにでもしなさい、体には気をつけてね」
という意外にあっさりした感じなのです。
この違いについて、知り合いのキリスト教牧師さんとお話をした事があったのですが
その方から興味深い意見を伺えました。
 その方のおっしゃるところによれば、キリスト教文化というのは、
過去からの出来事の文脈(聖書がその原点)と、
その過程で生じてきた、神から与えられた役割(使命)をまっとうする事に、
人間の人生の価値を置いている。
一方、日本人は、何かを残そうとか何かを伝えようという意思的な生き方よりも、
草木が生えて枯れて土に返るような、自然と一体化するような死生観を抱いている、
そういう在りように美意識を感じているのでは?という事でした。
(そのような価値観は、他の文化圏には無い日本独特のものであるらしいとも。)

 私には二人のほぼ寝たきり状態の祖母がいるのですが、どちらもリハビリを受けていません。
身内は一致して、自然に枯れて衰えて来たものを今更叩き起こして
機能を改善するのはかわいそうだ・・・と思ってるみたいなんです。
自分がこういう仕事してるのに皮肉なんですが、実はその気持ちがすごくよく解るんです。

 日本人にはOccupationがない、
‘無い’となればなるほどどうりで見つからないわけですね・・・・
いやはや、恐ろしく自分の価値観を揺さぶられる一言です・・・
一瞬、これからどうしよう!という気分になりました・・・
 

堤防工事

 投稿者:中村川  投稿日:2004年 8月13日(金)00時46分36秒
   奥田先生

 陸の孤島渡りを続けて日が暮れる毎日の中、有意義なお話が伺える場に感謝しております、
ロビンソンクルーソーです(笑

>中村川さんが実感しているように、利用者さんは自分の予後や社会的位置を本質的に
>よく知っていて、傷つくことなく認めてもらえる相手に承認を求めているような気がします。
>高齢者は、これまで頑張って築いてきたものが多いだけに、「もうええやん。」
>と思う人もいる気がします。

ほんとうにそうですね。

 利用者さんと屋外歩行をしている時、ご近所の方が掛ける声は、大抵「頑張れ」です。
それ自体は、相手の希望を信じた心温かい励ましなのですが、意地の悪い見方をすれば
励ましが続く以上、利用者さんは頑張り続ける事を周囲から期待されているわけで、
そのままじゃ存在を認めないよ、ただ散歩してるなんてダメだよ、ともとれます。
考えてみると、しんどい話です。

 神対自分で自己の存在価値をはかるキリスト教圏と違って、
日本社会は世間様の中にいてこそ(人様のお役に立ってこそ)の一般人という感じです。
日本で、見た目に特徴のある重い障害を受けた方が、キューブラーロスが言う所の障害受容を
するには、余程の別の能力があるか、変人にでもなるしかないように思えます。

 もしも利用者さんが、のびのびと外出する事を臨んでおられたら、
まず私に出来る事は、「これは訓練です!」と宣言しながら利用者さんと一緒に買い物なり、
散歩なりをする事かもしれないです。
そうでもしないと、多分ご近所さんから利用者さんが嫌味を言われてしまうのが
関の山ではないかと感じます。
(この場合、‘訓練士’という肩書きが、川の流れを広げる働きをする事になるでしょうか。)

>障害を持って地域で暮らすことに何か変化をもたらしてゆく活動ができないかな〜と
>川モデルに取り組むようになってもんもんと考えています。一緒に考えてみませんか?

 ワクワクする話ですね。
 何か素晴らしい活動はないでしょうか・・・

 

つかみどころのない文化

 投稿者:奥田真由美  投稿日:2004年 8月13日(金)00時32分30秒
  私は青年海外協力隊OGですが、帰国後日本で働き始めて、なんだかいろいろ目に見えない空気の流れに遮断されて動きにくいなあと思ったことが印象に残っています。そんな時「文化の違い」という表現に出会い、すごくぴったりだという気持ちになりました。でもそんな時期から遠ざかるにつれ、文化という言葉のつかみどころのなさを感じています。
川モデルで表現したかったのは、目でみて手でさわれない世界の要素と、実在的な要素を列記しその関連性をみていくようなものです。それに文化のコードがかかっているといわれればそうなのかもしれないし、そんなものはないといわれればそうかもしれません。だいたい文化という言葉自体、そのラベル下に表現されたものと私たちが受け取る意味が同一であるという保証がないと思います。ややこしいなあ。
 

文化なんて嘘っぱちだ!

 投稿者:やすきよ  投稿日:2004年 8月13日(金)00時09分2秒
  連続投稿です.
文化という考えは,フェミニズムにとってはダーティーワードです.
川モデルの優位性を「文化」という論点から展開していくことには,私は反対です.
理由は,フェミニズムが行ったのは,文化から性を解放することであって,現代思想的には,フェミニズムの次に進みつつあります.
川モデルが文化を基軸に論理展開する以上,こうした問題をどのように考えていくかということを踏まえないと,文化に閉じ込められた人々を再び抑圧することになると思います.
以前,マイケルさんとお話したときに,文化を実在論的に捕らえているような発言が気になりました.文化は,社会的に構築されたものです.
そのため他国と対比して日本の文化を論じる行為は,社会的に構築された文化という理解がないと,あたかも文化が実在しているかのような錯覚に陥ります.文化が社会的に構築されていく以上,文化の構築過程をとめて論じることはできないし,ましてや,文化が違うからとは言えないと思います.
「文化」を強調する以外の方法で,川モデルのよさをアピールする必要があるんじゃないでしょうか?
 

作業という呪縛

 投稿者:やすきよ  投稿日:2004年 8月12日(木)23時58分5秒
  皆様のご意見参考になります.
また自分の意見を書きます.

> occupationは日本語で「作業」と訳されているためのどうしてもこう言った見解が出てくると思うのです。やはり作業療法士である以上、私達がoccupationやoccupational beingをいかに捕えていくかは、もっとも重要なところでしょう。

本当に本当にそういえるでしょうか?
occupationを捉えていくことと,機能障害を捉えていくことと,どちらかが重要であると本当に断言できるのでしょうか?そして,occupationを捉えることがもっとも重要といえるでしょうか?
いえるとしたらその根拠は何なのでしょう?私は,occupationを捉えることがもっとも重要だとはいえないと思いますし,根拠もないと考えています.理由は簡単で,こうした考えは,時代によって揺れ動いているものなので,なによりもoccupationが重要というならば,この揺れ動きはいったい何なのか?真に重要ならば,原理的にはoccupationはいつの時代でも重要であるはずです.揺れ動くということは,たまたま今現在,occupationが重要という考えが支配的なだけで,だからといってあらかじめoccupationが重要とはいえないはずです(異論反論大歓迎).

私が,川モデルに期待している点は,occupationという用語の呪縛を解いて,今現在支配的な考え方とは異なる解釈体系から作業療法を説明することができるのではないかといううことです.

ですから,藤本さんのように「作業とは」「川モデルとは」というような実在論的な議論を展開するよりは(これらは実在するわけではなく,解釈です),「川モデルをどのように使うのが有用か」「作業をどのように理解することが有用か」といった問いの方がいくらか生産的で,次の展開に進めると思います.

コトバは思考を制約します.川モデルは,思考を広げるための道具かもしれません.
 

Occupation

 投稿者:藤本浩子  投稿日:2004年 8月12日(木)21時09分47秒
  作業Occupationについての議論、とても興味深く読ませていただいています。
少し私の意見を述べさせていただきます。

昨年、カナダの東海岸で行われたOT Atlantic学会で川モデルの発表をしたとき、カナダ人のOTからも「作業はどこ?」と聞かれました。当然の疑問だと思います。

その時に私は「作業とは何か、ということが日本ではまだ明らかになっていないので、答えられない」と言いました。そうすると、会場から自然発生的に「occupation is life!」と声が上がり、同意する人達から拍手が沸き、何か感動しました。

私たち人間が生きること、更に生き生きと生きること、そのために行うことがoccupationだと仮定すると、川モデルでは水を流す(流れる)ものはすべてoccupationということになるのかもしれません。

しかし、ここで気をつけたいのは、日本ではもしかするとそのoccupationがないかもしれません。ないというのは、定義できないものなのかもしれない、という意味です。そんな可能性も否定せずに広い視点を持ちながら今後も「作業とは」「川モデルとは」ということを考えて行きたいと思っております。

みなさまからのご意見お待ちしています。
 

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