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再開宣言

 投稿者:keizo  投稿日:2009年 2月 5日(木)16時35分28秒
返信・引用
  橋本さんの一周忌が近づきました。
三月十二日に向けて、何か追悼の文章を書かせていただこうかと思い
この掲示板の名称を「橋本裕さんを偲ぶ会」と改め、再開しました。

ひょっとすると、まだここを訪ねてくださる方もいらっしゃると思いますが、
橋本ファンの皆様、橋本さんや橋本作品の美しさ、偉大さ、誠実さ、優しさ
などなどについて、追悼文を寄せていただくろうれしいです。

管理人 keizo
 
 

感想

 投稿者:5/3男  投稿日:2006年11月30日(木)22時09分51秒
返信・引用
  セルジオvs渚についてです。
 二人は相手を全否定。mori夫が渚に共感。橋本さんは思想的にセルジオさんに共感(認めるところ大)で、渚さんとディベートし、渚、セルジオ両方の存在を認める。keizoさんは内なる保守性から渚さんと自分を重ねながら、だからこそセルジオさんにエールを送り、表現方法を直して、というような構図だったのでしょうか。
 私は橋本日記と掲示板の読者でしたが、keizoさんの立場に一番近いかなと思います。本質がkeizoさんや渚さん、そして私の様な人ばかりだと世の中はだんだん悪い方へ動いていくような気がします。渚さんの論理展開は説得力がありなかなかに論駁はしにくい、が、信頼できない(内なる渚的生き方、考え方との葛藤)のです。 mori夫さんや渚さんは有能な方々だと思いますが共感できません。
 セルジオさんを心情的に応援したいのですが、理解しにくいたとえや陳腐な人物の揶揄呼称(私は佐高信さんを尊敬しつつもかつて敵対する人物を変な揶揄呼称<例 小沢一郎=フリチンスキー>していたのが悲しかった)は辟易します。渚さんを「ぱち屋」と呼称しているのはなんらかの根拠がありそうですが、エールを送りたいのにちょっと引いてしまいます。橋本さん、kzeizoさんらセルジオさんを認めている方々もここのところは目を背けたくなっているのでは?
 「歴史や社会のとらえ方」「現実社会との向き合い方」「<理想>のとらえ方」を巡って立場が違うのでしょうが、周囲の心配に少しは反応したセルジオさんに対して、渚さんは橋本さんとの議論での「わかってないね」発言での対応は見ている(読んでいる)方が恥ずかしくなりました。掲示板閉鎖の経緯のきっかけはここに集約できると私は思いました。

 さて、私は最近まで中学校の教師をしていましたが、違う職種に転じるときの転任の挨拶の一部を転記して最初で最後の書き込みの終わりとさせてください。

(前略)<みんさんへの願い>一つは社会へ出て通用する人になりましょう、ということです。「自由」は人類が歴 史の中で勝ち取ってきた、とても大切な権利ですが、自由の名のものとにわがまま勝手をしていると、決して社会では通用しません。手をつなぎ、みんなといっしょにがんばれること、「一つになれる」ということは大事なんだ、と思える人であってください。
 そして、もう一つは、社会のよくないところをよくする努力を、ささやかではあってもする人になりましょう、ということです。戦争、環境問題、差別、いろいろな克服するべき問題が世の中には まだまだありますね。身近な周りを見回しても、「認め合い支え合い、共感し、心から安心して笑う」のではなく、自分を守るために「人を笑う」ことに頑張るのが、なんか正しいことのような雰囲気だってあるのではないでしょうか。周りがおかしな状態になっているとき、「一人になれる」勇気をもってほしいと思います。
 この二つのことは、私自身に願っていることでもあるんです。そして、このような事は、人と関わりながらでないと学べません。気の合う人、苦手な人、いろいろな人と関わり合いながら、笑ったり泣いたり、腹を立てたりしながら、実際に学ぶしかないとすれば、「学校」ってとっても大切ですね。
 私は、学校のよさを、学校から離れて再発見してこようと思っています。みなさんは、今いる、「学校」という場を大切にして、「学校」に通えることに感謝して、自分のするべきことを見失うことなく「○○中学校で」自分の生き方を見つけてください。 (後略)
 

あらら・・・

 投稿者:さいとーメール  投稿日:2006年11月30日(木)12時40分17秒
返信・引用
  久しぶりに来てみたら、今日でおわりなんですね。
残念と言うか、やっぱりなと言うか…。

keizoさん、お疲れさまでした。
みなさま、お元気で。
オフ会、ぜひとも声をかけていただければ幸いです。
ではでは。

http://cat-5.hp.infoseek.co.jp/

 

反日的なりすまし(爆)

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月30日(木)08時42分53秒
返信・引用
  keizoさま、さいごまでお粗末様でした(荒らしの外基地を誘発してしまった)。では、これにて失礼いたします。

皆さん、さようなら。
 

教育基本法改正の必要性

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月30日(木)08時03分47秒
返信・引用
  > 私もこれを機会に(すっかり忘れかけていた)臨死体験の勉強や、覚醒への求道を深めてまいりたいと思っております。素晴らしいサイトをご紹介いただきありがとうございました(keizoさんご自身の体験も素晴らしい)。

臨死体験の勉強ではなく、そのまま「黄泉の国」へ進まれて永住されては如何でしょうか。「馬鹿は死ななきゃ直らない」と申しますので。

> しかしながら、いかなる覚者も太平洋戦争が止められなかったように、自分自身が内向化することによって、現在日本が間違った道に進みつつあることを他の日本人に伝え広める行為を怠る、ということはあってはならないと考えております。とくに今はネットという、庶民が権力に抵抗するためには格好の素晴らしい武器があるのですから。大乗仏教的に「みんな一緒に涅槃へ行きましょう」という気持ちでがんばりましょう。ね、渚のバラードさん。

いや、涅槃へはオメー一人で行って下さい。それが「世のため、人のため」です。教育基本法の改正は、セルジオのような「馬鹿者」を一人でも減らすためにぜひとも必要です。「美しい日本」には、斯くの如き破廉恥な「反日的日本人」は大きな障害になりますので。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

Re: Re: 謝罪せよ

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月30日(木)01時13分26秒
返信・引用
  >謝罪すんのはオメーだろうよ。この恥知らず!

わはははは。最後の最後まで・・まあ、品がないねぇ、このパチョンコ屋さんは。

ではkeizoさん、さいごに総括お願いいたします。

私にとっては大変有意義な掲示板でしたが、閉鎖という選択はご賢明だったと思います。(感情に走る人々には、いかな金言も豚に真珠、エストニア人にキムチ)

私もこれを機会に(すっかり忘れかけていた)臨死体験の勉強や、覚醒への求道を深めてまいりたいと思っております。素晴らしいサイトをご紹介いただきありがとうございました(keizoさんご自身の体験も素晴らしい)。

しかしながら、いかなる覚者も太平洋戦争が止められなかったように、自分自身が内向化することによって、現在日本が間違った道に進みつつあることを他の日本人に伝え広める行為を怠る、ということはあってはならないと考えております。とくに今はネットという、庶民が権力に抵抗するためには格好の素晴らしい武器があるのですから。大乗仏教的に「みんな一緒に涅槃へ行きましょう」という気持ちでがんばりましょう。ね、渚のバラードさん。
 

Re: 謝罪せよ

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月29日(水)21時37分28秒
返信・引用
  謝罪すんのはオメーだろうよ。この恥知らず!

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

謝罪せよ

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月29日(水)11時52分53秒
返信・引用
  そして、なりすましオヤビンに即刻辞表を叩きつけて、玉磨きを止め、会社を去りなさい。あなたのお子さんが可哀想だ。

善と悪の板挟みで、歪んでしまった性格で、他にストレスのはけ口がないので、掲示板荒らししか楽しみがなかったのであろうが、あなたの歪みの根本は今の仕事なんだよ。人様からお金をかすめとることを目的とした違法賭博業なんか即刻止めろ!どうしても食い扶持がなくて止められないだ?ならば、その会社がゆっくり崩壊するように工作でもしろ。まだ心の平安が得られるだろう。でも本当にすっきりするのは辞めてしまうことだ。

とにかく、人様に喜ばれることをしなさい。いい年をして、いつまでも人を苦しめる側に加担していたのでは駄目だ。

パクスアメリカーナなどもう無いよ。米国経済はどんどん崩壊へ向かっているではないか。イラクも収集がつかなくなって、どんどん撤退論へ向かっている。アメリカはイラク戦争に敗北したのである。世界はますます多極化していく。

いまはユーロの一人勝ちだが、今後米ドルがユーロのみならず、他国通貨に対してもどんどん下落していくのは間違いない。円だけがなかなか急上昇しないのは「子鼠なりすましチョン一郎」がアメリカ様に貢ぎ続けた結果だ。しかし奴らクズどもの悪事はこれからどんどん一般大衆にもさらされていくことだろう。円も遠からず90円以上の「正常値」をつける、と断言できる。

ぱち屋よ、改心しなさい。キムチ臭いケツ磨きを止めなさい。いまの会社を辞めなさい。
 

Re: 偉そうでごめんなさい

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月29日(水)01時52分14秒
返信・引用
  mori夫さんへ

先程、貴談話室に伺いました。今後は直々寄らせて戴きます。こちらが無き後は、ハイレベルな議論の場として大事にしたいですね。

> 渚さんも渚さんです。セルジオさんのくだらない投稿なんか、完全無視すればいいのに、いちいち相手にするから、掲示板が荒れ放題になる。

そうは参りません。誰が見たって「くだらない投稿」ですが、真偽も確かめず出鱈目な投稿(というよりも、ガセネタの「ベタ貼り」)を他人様の掲示板に繰り返すような野郎は「許しちゃおけねー」ということです。自分の馬鹿さ加減が分からない奴は、誰かが厳しく「お前は馬鹿だ」と厳しく指摘し続ける必要があるのです。まあ、反省はしないまでも、多少の嫌な気分は味わって貰わねばなりません。普通の人は「触らぬ神に何とやら」でしょうが、40男が幼稚な出鱈目を吹いてたら、一体世間はどうみるのか、見て見ぬ振りの人間だけじゃないことを知って貰いましょう。

掲示板が荒れ放題になったのは、管理人がだらしなかったからです。「くだらない投稿」を毅然と拒絶しないから、一参加者の分際ではありますが、僕が傍若無人な振る舞いを糾弾し続けた訳です。発言への結果責任は求めませんが、真偽や根拠を把握して投稿するのが大人の常識です。昨年は「米国債が紙屑になる!」などと喚いていたのが、今ではダンマリです。普通の神経なら、「あれは私の見込み違いでした」くらい言うものですがね。これから先も、そんな事態には絶対陥らないし、21世紀の前半は「パックス・アメリカーナ」の時代が厳然と続き、少なくとも日本人はその恩恵に属すことでしょう。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

民主主義の総括

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月29日(水)00時24分53秒
返信・引用
  大変残念ながら、keizoさんは今月一杯で当掲示板を閉めるという決断をされました。僕としては最後に今回の「民主主義論議」を総括します。発端は「Re: 質問その2  投稿者:渚のバラード  投稿日:11月20日(月)20時04分32秒 」であり、以下のような意見で締め括っております。

>最後に補足しますが、民主主義の現実は多数決です。結果が全てです。これに対して泣き言を言ってもはじまらないのです。買収による投票は無効ですが、宗教団体や労働組合、更には何等かの利益集団にによる組織票は違法ではありません。この現実を直視しましょう。

これに対し、橋本さんが「民主主義についての私見  投稿者:橋本裕  投稿日:11月21日(火)07時46分59秒」にて以下のように語っておられます。

>これに対して、「民衆の一人一人の意見を大切にすること」が民主主義の精神です。まず第一に議会は「少数者の意見を聞く場所」です。そしてそのうえで、少数意見を吟味し、多数意見のあやうさを克服することが大切です。こうしたプロセスをとおして、民主主義がまがりなりに実現されます。

ここで橋本さんが語っておられるのは、「『「民衆の一人一人の意見を大切にすること』が民主主義の精神です」ということで、要するに民主主義の「理想」であり、民主主義に基づいた議論の「あり方」なのです。ところが、橋本さんの本音は別のところにあり、「つまり多数決の論理は、民主主義の論理よりもファシズムの論理として働くのです」という御説からも、「多数決は嫌い」なのでしょう。

「少数意見を尊重する」とは、「全ての参加者に平等な発言機会が与えられるべきだ」という考え方と同じだろうと思いますし、僕も全く異論ありません。そして、色々な観点や立場から議論を戦わせる中で、選択肢が絞られ、案件の内容や時代的背景次第では全員一致の結論が導かれることもあるでしょう。事実、日本国の国会においても全会一致の決議が何度かありました。

ところが、個人や集団の相互間には利害の対立が複雑に絡んでおり、議論をしても平行線を辿ることが間々あります。妥協点が見つかり、双方が歩み寄れば宜しいのですが、二者択一のケースが結構あるし、片方が妥協に応じなければ問題解決は不可能です。この場合、政治の場では「多数決」が採用されます。これは法律で定められた方法であり、過半数の場合や2/3以上という条件が案件により規定されておりますが、要するに「多数派」の意見が採用されます。民主主義国では殆どの場合「多数決」で政治的決着が着きますから、「民主主義≠多数決」ですが、「民主主義に基づく議決≒多数決」と考えて宜しいと思います。

mori夫さんが「少数意見とは?  投稿者:mori夫  投稿日:11月24日(金)00時18分27秒」で述べられているとおり、「多数決」の否定は以下のような混乱を引き起こします。
------------
   「少数者の意見」とは、具体的に何を指すのか、それがはっきりしないと、不毛な神学論争みたいになってしまう気がします。

少数者のわがままのために、大多数が大迷惑を被るような事例であれば、「少数者の意見を尊重せよ」とは、誰も言わないでしょう。(そういえば人糞を自分の庭で煮ていた人物がいたっけ。)

「少数者の意見を尊重せよ」と、教条主義的に頑迷に押し付けられて、にっちもさっちもいかなくなり、集団としての意思決定がいつまでたってもできない。そして社会が漂流する。そんな事態が発生したら、これこそが、もっとも現代的な「衆愚政治」ではないでしょうか。

十分な議論を経て多数決で決まったことは、尊重して従う。これは悪いことではなく、良いことでは? そういう分別こそが、現代では求められているのでは? (もちろんこの原則で、世界も日本も動いていますが。)
--------------
要するに、「十分な議論を経て多数決で決まったことは、尊重して従う」というのが多数決、更には民主主義の前提であり、「多数決が嫌い」という人は「尊重して従う」ことが出来ない我儘な人です。民主政治の良い点は、期待外れの政治家や政党が次回の選挙で敗北し、民衆に支持された政治家や政党が政権を任されることです。これがなくなったら「独裁制」であり、「多数決が嫌い」という人はこちらの方が向いているのでしょう。自分好みの「独裁制」には寛容ですから。

もう一つ言いますと、議論の開始時点における「少数意見」は大いに尊重されるべきですが、終末における「少数意見」は軽視される運命にあります。それは自然の成り行きであり、説得力と多数の支持が死命を制します。結局、最終的には最初の「少数意見」が「多数決」で採用されるのです。この限りにおいて、「少数意見」は尊重され、決めるのは「多数決」なのです。

そして、陪審員の評決の例でも触れましたが、「全員一致」は結果に過ぎず、それに至るプロセスには「多数決」が必ず存在するのです。アメリカ民主主義の理想が「全員一致」だとしても、それは「多数決」が前提にあり、「十分な議論を経て多数決で決まったことは、尊重して従う」という考え方が徹底しているということだと思います。

この掲示板が閉鎖される切っ掛けが「民主主義論議」だったということも、何かを暗示しているのかも知れませんね。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

わははははは

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月29日(水)00時21分15秒
返信・引用
  ぱち屋の腰巾着(まさしくこういう輩を指して言う)が浅薄かつ近視眼なカキコをまたしてもえんえんやっておるが、橋本さんはこの手の低次元ないいがかりにいちいち相手をしてやるのが、ホトホト嫌気がさされたのが、まだわからぬのか大馬鹿ものめが。

壺三叩きや朝鮮族のシャブ中幹事長叩きなどけっしてできない、お上に弱く、権威に弱い北関東気質の情けないリーマンどもは、ユダヤ朝鮮族に買収されたマスゴミの尻馬に乗って盲目的に公務員叩きをやり、自由業のわれわれをいつまでも羨みながら、自分の愚にもつかないへたれブログでいつまでも一人で愚痴愚痴言ってて下さいな。橋本さんにいいがかりがつけられなくなって、まことにご愁傷さまです。わははははは!アディオ~ス!
 

偉そうでごめんなさい

 投稿者:mori夫  投稿日:2006年11月28日(火)20時05分38秒
返信・引用
  keizoさんのご好意を、皆で無駄にしてしまった。残念なことです。我(が)を通すだけでなく、せっかくの対話交流の場を大切にするという気持ちに、どうしてなれないのでしょう。

これは橋本さんに対する気持ちも、少し含んでいます。社会に向かって、社会批判や政治批判をするなら、それに対する反論の窓口は、開けておくのがネット時代の、あるべき姿勢だと私は思います。(メール窓口だけでは、誰がどんな感想を送っているのか、わからない。)言いたい放題書きっぱなしで、掲示板もコメント欄もないブログやHPを見るのは、嫌なものです。

渚のバラードさんは、その率直すぎる発言が、反論された人の気分を害するということはあるでしょうが、発言内容は、きわめて理路整然としていて、説得力のあるものです。渚さんは、セルジオさんのような、どうしよもない罵詈雑言をたれ流す人とは違います。ちょっと言い方が率直なだけです。どうして耳をふさいで逃げてしまうのでしょう。ファンサイトを「消せ」などと言うのでしょう。

渚さんも渚さんです。セルジオさんのくだらない投稿なんか、完全無視すればいいのに、いちいち相手にするから、掲示板が荒れ放題になる。

keizoさん、お疲れ様でした。ありがとうございました。ぜひブログかHPを立ち上げて、お知らせください。すでにあるのでしたら、URLを教えてください。継続してお話がしたいです。私のブログの「mori夫の談話室」にでも書き込んでいただければ、うれしいです。

(皆様、偉そうなことを言って、すみませんでした。)

http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/

 

今月いっぱいで閉鎖させていただきます

 投稿者:keizoメール  投稿日:2006年11月28日(火)13時45分4秒
返信・引用 編集済
  橋本さん、どうも私が余計なことをしたばかりに、
結果的に、ひどくご迷惑をおかけし、
不愉快な思いをさせてしまったこと、
心よりお詫びいたします。

私には、この掲示板の管理人をすることが、荷が重すぎ、
初期の目的の「橋本作品を通じて文学人生を語り合う」ことが
なかなかできにくいのではないかと思い始めました。

橋本さんの作品へのファンレターは、
また個人的にメールで書かせていただきたいと思います。

つきましては、この掲示板も短命でしたが、幕を引こうと思います。
何かおっしゃりたい方もいらっしゃるかもしれないので、
今月中はこのままにしておきます。

mori夫さん、セルジオさん、渚さん、
本当はオフ会でお会いしたかったのですが、
ちょっと無理になってしまったようですね。
またどこかで、お会いできたらと思います。

いろいろ、未熟なことを書いて、ご迷惑おかけしたかもしれませんが
どうかご容赦ください。
皆様のご健康とご健筆をお祈りしています。
 

掲示板の名称変更について

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月28日(火)09時08分50秒
返信・引用
   このお二人、どうにもおさまらないようですね。まあ、心ゆくまで、バトルをおたのしみください。

 もうしわけありません。keizoさんにおねがいします。この掲示板の表題をかえて下さい。もはや、ファンクラブというものではないと思いますので・・これではちょっと恥ずかしい。

 近いうちに、私のホームページからリンクを外しますので、もし、私のHPから経由してきてみえる方があれば、ご注意下さい。

 それでは、みなさん、さようなら。橋本裕
 

Re: ぬけぬけと

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月28日(火)07時38分38秒
返信・引用
  僕は、「腰巾着」でも「太鼓持ち」でも、「幇間」でもありません。「本質が分かってない人」に対して「何も分かってないね」とストレートに指摘したに過ぎません。それ以上に「分かってない」君は救いようのない人です。いい歳こいて、頭を撫で撫でしてくれる人に尾っぽを振ってれば良いでしょう。誇りを持ちなさい。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

ぬけぬけと

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月28日(火)01時53分5秒
返信・引用
  橋本さんへの謝罪など一言もなく、ただ「戻りました」とは!

この厚顔無恥ぶりは、常日頃このパチ屋が「玉磨き」ならぬapple polishingに相務める、朝鮮族のなりすましオヤビン様にそっくりだ。オヤビンのお仲間が戦後のどさくさで駅前の一等地を不法占拠して、世にも醜い美観センスゼロ(赤黄青でどこかのグロい旗に似てるなw)のネオンや看板でいろどられたパチョンコ屋やサラ金屋を乱立させた。さらにそのお仲間が層化や豚一などのキムチ臭いカルト宗教を使って善良で貧しい日本人をたぶらかし、なりすまし政治家を国会へ送り込んだ。

シャブ中幹事長や北朝鮮人の秘書官が「愛国」や「教育」などとほざき、「女系天皇」などと、おぞましくもいけシャーシャーと口にする。こんなことは許してはならん!こやつらは斬首すべし!そして、こやつら極悪なりすまし朝鮮族の一族郎党、その手下どもは、全員ポンポン船に乗せて、玄界灘から半島へ送り返すべし!

日本人の幸せな老後はここからはじまるのである。
 

戻りました。

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月27日(月)21時49分22秒
返信・引用
  このところ仕事が佳境で、支離滅裂な40男になど、かまっていられない状況でした。keizoさんも同じ名古屋の空気を吸う方ですし、オフ会大賛成です。来年3月一杯までタイトな状況が続きますが、何とか都合を付けて参ります。大いに飲んで歌いましょう。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

Re: なりすまし朝鮮族の政治家が日本のガン

 投稿者:keizoメール  投稿日:2006年11月27日(月)15時35分52秒
返信・引用 編集済
  セルジオさんにも再びご登場いただいて、うれしいです。
渚さんには帰ってきていただけるでしょうか???

以前にご紹介した「覚醒体験」のケーススタディーのページ
ごらんいただいたかもしれませんが、
その中の、私が好きなひとつを紹介させていただきますね。
これ文学作品を読んで突然の「光明」、という意味では
橋本さんのご体験とそっくりですし、
ワハハハという意味では僕のとちょっと似ているんで・・・。
(人にはするなと言ったくせに、私も長文貼り付けお許しを)

@@@@@@
http://www.geocities.jp/noboish/case/syukyoka/yamadakoun.htm

山田耕雲老師 『再見性の大歓喜』(抄)

....前部分 略....

三島龍沢僧堂 中川宗淵老師宛の手紙

丁度大船より少し手前のあたりで書中「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり」(付記『正法眼蔵即心是仏』の巻にありと)の句に逢着致しました。この文字は決して初めてお目にかかった訳ではないのですが、何かしらハッと固唾を呑む思いでした。謂えらく「自分も禅に参じて七、八年。ようやくこの一句がわかるようになったか」と。そう思うと急に涙のこみ上げてくるのをおさえることが出来ません。人中なのできまりがわるく、ソッとハンカチで眼を拭って居りました。鎌倉へ着き、裏道を帰る途々、何となくすっきりした気分です。

「今日はなんだか大変すがすがしいよ。」
「それはようございましたね。」
「何となく、僕はえらくなれそうな気がする。」と二度ほど同じようなことを申しますと、
「困りますわね、お父様ばかりえらくおなりになって、距離が出来すぎて。」
「いや、大丈夫だ、どんなにえらくなっても心はいつもすぐ側に居るんだから」と、
子供みたいなことを言い合いながら家へ着いたのですが、その間幾度となく、
「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」と、
繰り返し繰り返し心でとなえていたことを覚えています。

 丁度その日は、弟夫婦が泊まって居りましたので、一緒にお茶などを飲みながら、龍沢寺へお詣りした話、そこから黒衣姿のアメリカの青年が居て、只見性のみを求めて両度渡日したその物語を、貴兄から伺ったまま話してきかせました。お風呂へ入って寝に就いたのは十二時近かったと思います。


  夜中にフッと眼がさめました。初めは何か意識がはっきりしないようでしたが、フト、 「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」 の句が浮かんできました。それをもう一度繰り返したとたん、一瞬電撃を受けたようなピリッとしたものを全身に感じたと思うが否や、天地崩壊す。間髪を入れず怒涛の如くワッと湧き上がって来た大歓喜、大津波のように次から次と湧きあがり押し寄せる歓喜の嵐。あとは只口いっぱい、声いっぱいに哄笑する。哄笑の連続。

 ワッハッハッ ワッハッハッ
 ワッハッハッハッハッハッハッ

なあんにも理屈はないんだ。なあんにも理屈はないんだ。とこれも二度ほど叫びました。

 ワッハッハッ ワッハッハッ
 ワッハッハッハッハッハッハッ

虚空が真二つに割れて大口を開き、ワッハッハッハッハッ ワッハッハッハッハッ ワッハッハッハッハッと、腹一っぱいに笑ってるいるのです。家の者の話では人間の笑い声ではなかった由。

  最初は寝ていたのですが、途中から起き上がるなり、両腕の折れるほど力いっぱい布団をたたきつけ、たたきつけ、両膝で床を破れるばかりに踏みならしながら、

 ワッハッハッハッ ワッハッハッハッ
 ワッハッハッハッハッハッハッハッ

果ては立ち上がって天にのけぞり、地に伏し、

 ワッハッハッハッ ワッハッハッハッ
 ワッハッハッハッハッハッハッハッ です。

  側には妻と末の男の子が寝て居りましたが、この青天の霹靂にビックリギョウ天し、妻は私の口を両手で押えつけながら、「どうなさいました。どうなさいました。」と連呼したそうです。子供は気違いになったと思ってゾッーとしたそうです。妻の呼ぶ声はたしかに聞いたように思いますが、口を押さえられたことは全く記憶なし。

   「見性したんだ。見性したんだ。ああ、仏祖我をあざむかず。」

と叫んだのはしばらくたってからでしょう。その間どの位の時間だったでしょうか。自分では二十分位の感じがしているのですが、妻の話では、二、三分位だろうと申します。 やや落ち着きました。何事かと驚いて下りてきた二階の人達に、どうもお騒がせしてと言う位のゆとりも出て来ました。

(後略)
 

Re: Re:人殺し抑止としての死刑と核兵器

 投稿者:keizoメール  投稿日:2006年11月27日(月)15時19分56秒
返信・引用 編集済
  mori夫さん;

ご丁寧なご返事ありがとうございました。

> 私は高橋氏の言論に、異常とも思える国家への敵意を感じます。独裁専制国家ならいざしらず、民主主義が十分に機能しているこの日本という「国」を否定するのは、日本人そのものを否定するに等しいです。(日本人の国民性が攻撃・批判されている。)

高橋さんのことはよく存じ上げませんが、わたしも「何でも反対」のいわゆる「人権派」の人々がとても苦手です。上野千鶴子さんのような極端なフェミニストも同じです。
こういった人たちを徹底的に批判しているページに、ご存知かもしれませんが「林道義のホームページ 」があります。私も愛読しているのですが、多分mori夫さんのお考えとの共通点が多いのではないかと思いますので、紹介させていただきます。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/

>
> 国家権力の横暴なるものを批判したいのなら、真っ先に目を向けなければならないのは、中国や北朝鮮でしょう。日本のすぐ近隣に、こんなにもひどい人権無視国家があるのに、どうして60年前のことを蒸し返して、中国や北朝鮮に味方し、現代日本を攻撃するのだろうか。まったくわけが分からない。いまの中国や北朝鮮の人民の惨状が、いまの日本の政治の悪さに原因があるのならともかく。

おっしゃるとおり、こうした「人権派」の人は、部外者から見たら、明らかに「ヘン」ですね。しかしヘンな人ほど自分がヘンだということに無自覚なのが普通なのではないでしょうか?この理由を考え始めると、自分もひょっとするとすごくヘンだということが自覚されてしまい、恐ろしいので考えないようにしています(笑)。

とにかく、「人権派」の残党の方々は手に入れた「既得権益」(中国や北朝鮮に味方し、現代日本を攻撃することによって得られる利益)すがり付いて、内部矛盾に糊塗に糊塗を重ねていると考えれば、彼らのヘンさは理解できます。そして「既得権益にすがる」という意味では、それは多かれすくなかれ自分たち自身の姿なのではないかと思っています。

>
> 中国の10億人以上の人が、役人の不正や国家の怠慢により、いかに過酷で貧しい生活をしているか。どうしてそっちに目を向けないのか。外国の人権活動家は、中国にもハッキリとものを言っている。お手軽な日本批判や国家批判をしながら、ちゃっかりと国立大学の教授などという名士におさまっている人物が、私は信用できないです。(と、私は憤るわけです。)

mori夫さんは、そのようなヘンな人が国立大学の先生の収まっているのに憤っておられるようですが、私は中には例外があるのかもしれませんが、国立大学の先生にすんなりと納まるような人ほど、へんな人が多いんじゃないかと思っています。

> 私たちは、もう個人主義生活からあと戻りできない。だとしたら、死刑制度を、犯罪の抑止力として、残すしかない。そんなふうに思えます。
>
> 制度の問題と、運用の問題は、違うとも思います。伝家の宝刀(と表現していいかどうか問題ですが)を、抜くか抜かないかは、裁判官の判断にゆだねるということで、制度としては、死刑はあったほうがいいのではないか、というのが、いま時点の私の考えです。

「抑止力」ということを、私ももう一度考えてみたいと思います。

> 拝読しました。非常に深い思想と思います。ただ、現実社会における死刑制度の存続問題とは、直接的には結び付けられないと思いました。(失礼な言い方で、すみません。)私は、制度としての死刑を残すかどうか、という問題提起をさせていただいていますので、個別の犯罪人を見て、この男を死刑にするかどうか、という裁判基準は、また別問題と思います。

そのとおりかもしれませんね。
しかし、私の言いたかったのは、犯罪者もそうでない人も過去からの因縁でたまたまそういう役割を受け持っているのであり、犯罪を生み出したのは犯罪者本人の実体的な変更不可能な素因によるのではなく、周りの条件(環境)に起因する場合が多いという理由で、似たり寄ったりの人間同士が「死刑制度」の下に「仲間」を抹殺するという考え方には無理があるということです。

> 現代社会は、犯人と被害者を、直接対決させないようにしています。裁判所と法律が、「罪の赦し」と「両者の和解」の機会を奪っている。
>
> お暇なときに、この拙文をお読みいただければ、うれしいです。

これから拝見させていただきます。
 

なりすまし朝鮮族の政治家が日本のガン

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月26日(日)20時55分22秒
返信・引用
  ぱち屋が来なくてもガンガンいきます。

こういうシャブ中のうす汚い朝鮮族が、国士・平沼先生に「反省を迫る」などと全くもって言語道断である。
http://nikaidou.com/clm1/0610/nakagawa-001.jpg
http://nikaidou.com/clm1/0610/nakagawa-002.jpg

売国奴朝鮮族の温床、層化&豚一協会を撲滅すべし!

日本の国富を盗みまくったB賤民エセ学者、竹中屁蔵を監獄へぶちこむべし!
 

Re:Re:人殺し抑止としての死刑と核兵器

 投稿者:mori夫  投稿日:2006年11月26日(日)19時59分6秒
返信・引用
  keizoさん、ていねいにコメントしてくださり、ありがとうございます。

> 高橋さんの< 略 >にあるような「人権」は「国権」に蹂躙されてはならない、という理由からではなく、「犯罪者(殺人者)」に対する基本的な人間観の転換があったからです。

私は高橋氏の言論に、異常とも思える国家への敵意を感じます。独裁専制国家ならいざしらず、民主主義が十分に機能しているこの日本という「国」を否定するのは、日本人そのものを否定するに等しいです。(日本人の国民性が攻撃・批判されている。)

国家権力の横暴なるものを批判したいのなら、真っ先に目を向けなければならないのは、中国や北朝鮮でしょう。日本のすぐ近隣に、こんなにもひどい人権無視国家があるのに、どうして60年前のことを蒸し返して、中国や北朝鮮に味方し、現代日本を攻撃するのだろうか。まったくわけが分からない。いまの中国や北朝鮮の人民の惨状が、いまの日本の政治の悪さに原因があるのならともかく。

中国の10億人以上の人が、役人の不正や国家の怠慢により、いかに過酷で貧しい生活をしているか。どうしてそっちに目を向けないのか。外国の人権活動家は、中国にもハッキリとものを言っている。お手軽な日本批判や国家批判をしながら、ちゃっかりと国立大学の教授などという名士におさまっている人物が、私は信用できないです。(と、私は憤るわけです。)

> 言い換えると、ガン発症という現象が、(つまり凶悪犯罪という現象が)体全体の歪みや劣化が根本原因となっており、(つまり社会全体の歪みが根本原因となっており)ガンは(凶悪犯罪は)その歪みや劣化にもっとも敏感で脆弱な部分にあらわれるのであり、ガンそのものを取り除いても、(つまり殺人者を死刑にしても)根本的解決にはならず、摘出手術や抗がん剤は(つまり死刑は)姑息的手段であるというより体全体の生命力を劣化させる手段なので、避けるべきであり、体全体の生命力が向上し、歪みや劣化が改善されれば(つまり社会全体が浄化されれば)ガン細胞(凶悪犯罪は)もしぜんと退縮すると考えるうようになったからであります。

かなり共感します。でも現実社会を見ると、ではどうすればいいのか、ということで、悩みます。

「ウルルン滞在記」というテレビ番組などで、いまも昔ながらの共同体生活(貨幣を使わない生活)をしている部族などが、紹介されます。彼らの社会に、悪人はいません。とれた獲物やくだものは、集落全員でわけあって食べます。自然と一体になった、理想的な共同生活をしています。これこそ、共生社会。彼らは大人数で一緒に暮らしているので、プライバシーは皆無。「個人」という意識も概念もない。

でも現代人(文明人)は、「個人主義生活」に入ってしまいました。家族の間でもプライバシーを侵害することは許されず、子供も小さいうちから、個室が与えられます。マンション隣の住民が、何かへんなことをしているようでも、関与することはいっさいできない。社会の価値観は「人権」におかれているので、個人が自分だけのの狭い欲望を追求することを、誰も制止できない。こういう共同性が失われた社会で、「共同体の健康性と健全性を保つ」ことは、果たして可能でしょうか。

私たちは、もう個人主義生活からあと戻りできない。だとしたら、死刑制度を、犯罪の抑止力として、残すしかない。そんなふうに思えます。

制度の問題と、運用の問題は、違うとも思います。伝家の宝刀(と表現していいかどうか問題ですが)を、抜くか抜かないかは、裁判官の判断にゆだねるということで、制度としては、死刑はあったほうがいいのではないか、というのが、いま時点の私の考えです。

> 第十三条 本願ぼこりという思い上がり

拝読しました。非常に深い思想と思います。ただ、現実社会における死刑制度の存続問題とは、直接的には結び付けられないと思いました。(失礼な言い方で、すみません。)私は、制度としての死刑を残すかどうか、という問題提起をさせていただいていますので、個別の犯罪人を見て、この男を死刑にするかどうか、という裁判基準は、また別問題と思います。

罪と罰の問題は、古今東西、深く考えられ続けてきました。私はドストエフスキーが提示した思想に、共感を感じます。大切なことは、罪を犯した人の心が救われるかどうか、にあるように思います。そのために被害を受けた人や周囲の人が何をしたらいいか。何ができるか。「因果であってこの男自体に罪はない」と言うだけでは、あまり価値ある思想ではないような。(生意気で、すみません。)

現代社会は、犯人と被害者を、直接対決させないようにしています。裁判所と法律が、「罪の赦し」と「両者の和解」の機会を奪っている。

お暇なときに、この拙文をお読みいただければ、うれしいです。
http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/2004/09/post_23.html

http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/

 

Re: みてますよ

 投稿者:keizoメール  投稿日:2006年11月26日(日)12時22分8秒
返信・引用 編集済
  > たのしく拝見しています。
> 掲示板が存続できそうでよかったですね。

どうもいろいろお気遣いいただき恐縮です。
天照大神のように、天岩戸にお隠れになってしまわれたと思い、
アメノウズメのようにストリップ踊りでもして、
気を引かねばと考えていたのですが、
そうする必要がなくなってほっとしました。

>
> 実際、みんな愛すべき人たちです。
> 今度、名古屋で忘年会を兼ねたオフをしましょう。
> 貧乏な私のために、会費は3000円以下と言うことで・・・
> そのとき、keizoさんのDVDを下さいね。

あと句集とか、雑文集だとかもありますので、
差しさわりがないようでしたらすぐに郵送いたします。
keizovanq@yahoo.co.jp

オフ会楽しみです。
年末いろいろとお忙しいと思うのですが
橋本さんがお時間をあけていただける余裕があるのでしょうか?
 

Re: 人殺し抑止としての死刑と核兵器

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月26日(日)12時06分30秒
返信・引用 編集済
  mori夫さん、書き込み拝読いたしました。

「死刑」問題と「戦争(核武装)」問題が
国家という存在を軸に表裏一体になっているというご指摘、
今までにそういうことを意識したことがなかっただけに大変新鮮でした。

> 憎くて憎くて相手を殺したくなる気持ち。金のためだったら人殺しも平気な冷血さ。こういうものが、死刑を廃止すれば、同時に人間の心からも消えてしまうならば、私だって死刑廃止大賛成です。
>
> しかし実際は違う。死刑が廃止されたら、殺人事件は、増えこそすれ、決して減りはしないでしょう。人を殺したら、自分も処罰されて同じ目にあうという掟は、私は人間社会には必須だと思う。これが殺人犯罪の抑止力にもなる。きれいな理想論では片付けられない。

私も以前には、死刑制度が再犯抑止力があるなら、
「必要悪」「対症療法」として肯定されるべきだと考えていました。
しかし、現時の私のさしあたりの考えは、
「必要悪」「対症療法」はいたずらに行使されるべきではない、
つまり死刑制度はなくしたほうがいいと考えるようになりました。

しかし、高橋さんの

<人権という観念がなかった時代、国権が人権に優越していた時代には自明のものに思えたその「合法性」は、いまや化けの皮を剥がされた。いくつかの「大国」がいまだにその権利を容易には手放したがらないとしても、戦争の違法化と死刑の廃止は確実に歴史の潮流になっているからだ。>

にあるような「人権」は「国権」に蹂躙されてはならない、
という理由からではなく、
「犯罪者(殺人者)」に対する基本的な人間観の転換があったからです。

「犯罪者(殺人者)」を体内の「ガン細胞」にたとえると、
ガンを引き起こした原因は、ガン細胞そのものにあり、
増殖や転移する前にいち早く手術や抗がん剤で取り除いてしまえ
という考え方と共通するのが「死刑制度」だと思うのですが、
私は、どうやらこの考え方は基本的に間違っていると
考えるようになったからであります。

言い換えると、ガン発症という現象が、(つまり凶悪犯罪という現象が)
体全体の歪みや劣化が根本原因となっており、
(つまり社会全体の歪みが根本原因となっており)
ガンは(凶悪犯罪は)その歪みや劣化に
もっとも敏感で脆弱な部分にあらわれるのであり、
ガンそのものを取り除いても、
(つまり殺人者を死刑にしても)根本的解決にはならず、
摘出手術や抗がん剤は(つまり死刑は)姑息的手段であるというより
体全体の生命力を劣化させる手段なので、避けるべきであり、
体全体の生命力が向上し、歪みや劣化が改善されれば
(つまり社会全体が浄化されれば)
ガン細胞(凶悪犯罪は)もしぜんと退縮する
と考えるうようになったからであります。

・・・・・理想論ですね。

この考えは、親鸞の「歎異抄」第十三条に強い影響を受けています。
私なりに要約すると、ここに書かれていることは
「条件さえ整えば誰でも人殺しになる。
また、人殺しにならないのも、
因果関係上たまたそうなっているのに過ぎない」
という人間観だと思います。

@@@@@

(参考)

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/porori/syogyo/tanni03.html

第十三条 本願ぼこりという思い上がり
【現代語訳】
一、阿弥陀さまのご本願はどのような悪人でもお救いくださる不思議なお慈悲であるからといって、悪を恐れない者は、「本願ぼこり」といって本願に甘えている人であるから、決して往生することはできない。と主張するものがあります。この主張は、阿弥陀如来のご本願を疑うものであり、善悪はいままでの過去世の業縁の現れだということを心得ないものです。
 善い心が起こるのも、今までの善業に関係しているのであり、悪いことが心に起きるのも今までの悪業に関係しているのです。亡き親鸞聖人は、「ウサギの毛や羊の毛の先に付いているちりほどの小さな罪でも、今までの業縁に関係のないものはないと知るべきである」と仰せられました。
 またあるとき、聖人は「唯円房、私の言うことが信じられますか?」と仰せられたので、「はい、信じます。」と申し上げたところ、「それでは、私の言うことに決して背かないか?」と重ねて仰せられたので、謹んでお受け申しましたところ、「それでは人を千人殺してみなさい、そうすれば必ず浄土に往生することは間違いがありません。」と仰せになりましたが、その時私は、「お言葉ではございますが、この私の器量では千人はおろか、一人も殺せそうにはありません。」と申したところ、「それではどうして、親鸞の言うことに背かないと言ったのですか?このことによって思い知らねばなりません。どんなことでも心に思うままになるのであるならば、浄土往生のために千人を殺せと言われたら殺すことができるはずです。しかし、殺さなければならない業縁がない以上一人も殺せないのです。自分の心が良くて殺さないのではありません。またその反対に、殺さないつもりであっても、百人・千人の人を殺してしまうこともあるのです。」と仰せられました。これは自分の心が良ければ往生ができて、自分の心が悪ければ往生ができないと勝手に思い、不思議なご本願により往生させていただくということを知らないためにおこる誤りへのおさとしのお言葉であります。(後略)
 

あっ!はしもとさんだ!

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月25日(土)20時56分16秒
返信・引用
  すいません、今日は一足早い忘年会があって
酔っ払っています。まともなご返事ができません。
とにかく、橋本さんが帰ってきていただいてうれしいです。
mori夫さん、あしたまたご返事書かせていただきます。
 

人殺し抑止としての死刑と核兵器

 投稿者:mori夫  投稿日:2006年11月25日(土)17時15分38秒
返信・引用
  (橋本さんのHPからのテーマではないのですが、自分のブログに書いたものを、話題提出ということで、あげさせてください。)

高橋哲哉 東京大学大学院教授「死刑廃止に向けてのメッセージ」から引用します。
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_takahashi.html

■引用はじめ■
戦争と死刑は国家が「合法的」と称して行なう殺人行為である。

人権という観念がなかった時代、国権が人権に優越していた時代には自明のものに思えたその「合法性」は、いまや化けの皮を剥がされた。いくつかの「大国」がいまだにその権利を容易には手放したがらないとしても、戦争の違法化と死刑の廃止は確実に歴史の潮流になっているからだ。

戦争も死刑も、じつはその自称「目的」を達することは稀である。拘置され自由を奪われた犯罪者に、そのうえさらに死をもたらしたところで得られるものなど何もない。国家権力が―血塗られた―国家権力であること、この空虚なトートロジー(同語反復命題)を確認するだけの死刑は、ただちに全廃されるべきなのだ。
■引用おわり■

この考え方は正しいだろうか。私は理想論としては正しいが、現実論としては間違っていると思います。私たちが生きている実社会は、理想と現実が折り合わさって、動いている。理想のみで法律を作ることはできない。

この学者は、ことさら国家というものを「悪」視して、「血塗られた権力」などと言いますが、本当に血塗られた、どす黒い闇をもっているのは、ひとりひとりの人間の心です。

憎くて憎くて相手を殺したくなる気持ち。金のためだったら人殺しも平気な冷血さ。こういうものが、死刑を廃止すれば、同時に人間の心からも消えてしまうならば、私だって死刑廃止大賛成です。

しかし実際は違う。死刑が廃止されたら、殺人事件は、増えこそすれ、決して減りはしないでしょう。人を殺したら、自分も処罰されて同じ目にあうという掟は、私は人間社会には必須だと思う。これが殺人犯罪の抑止力にもなる。きれいな理想論では片付けられない。

この観点に立てば、日本国憲法は矛盾しています。日本の外側から攻撃してくる外国人に対しては交戦もできないのに、日本の内側から日本人を殺す日本人に対しては、死刑を許している。戦争放棄と死刑廃止は、ふたつそろっていないと、あるいは、交戦権と死刑が両立していないと、法律としては矛盾してしまう。(憲法九条護持派は、たいてい死刑廃止論者なので、筋は通っているが。)

核兵器も同じですね。核を持っていることが、相手に核を使わせない抑止力になる。

国家も生物です。そして生物とは因果なものです。自分を脅かす相手を殺す迫力を失ってしまえば、自分の生存力も、衰えてしまって自滅してしまうのだなあ。

この高橋氏が、私には平和主義者には見えません。この人のいくつかの書物に見られる論説には、敵を切りつける冷血さがある。容赦なく善悪を切り分けて、悪を抹殺しようとする人です。その論理構築上の整然とした「正しさ」に、誰もまともに反論できない。極端に言えば、氏は「平和」や「人権」という武器を手にした、「戦争屋」なのです。

氏の言論は、極右のそれと同じく、社会に平和をもたらすものじゃない。国を大事なものと考え、守ろうとする人々を悪玉視し、国内の対立を先鋭化させるだけの思想。そしてこれは、こういう学者の権力欲(あるいは権力へのコンプレックス)からきている。氏の鋭い目つきがそれを物語っている。私にはそう思えてなりません。

それにしても、高橋氏といい、上野千鶴子氏といい、こういう反国家論者が、東大という「国立大学」の頂点にいて、給料をもらってるとは、どういうことなんだか。

たぶんこれも、アメリカの核や在日米軍に保護されているのに、「自力で平和憲法を守ってる」みたいに勘違いしている「戦後民主主義」の、甘えと欺瞞からくる自堕落と、同じ構造なのだろう。

http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/

 

みてますよ

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月25日(土)08時24分36秒
返信・引用
  <橋本さん、見てますか~!>

たのしく拝見しています。
掲示板が存続できそうでよかったですね。

実際、みんな愛すべき人たちです。
今度、名古屋で忘年会を兼ねたオフをしましょう。
貧乏な私のために、会費は3000円以下と言うことで・・・
そのとき、keizoさんのDVDを下さいね。
 

この掲示板はしばらくこのままにしておきます

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月25日(土)07時35分2秒
返信・引用
  mori夫さん、温かなコメントありがとうございます。
掲示板というメディアは、
たぶん正しさを主張しあう「論争」には不向きなメディアですね。
そうとうなジェントルマン同士でも、
最後は必ずけんかになってしまいますね。
今度機会があったら、ちょっと怖い気もしますが
off会での生バトルを見てみたいきもしています。

おそらく生渚さんも、生セルジオさんも
とっても気さくなジェントルマンに違いないと想像しているのですが・・・・。

橋本さん、見てますか~!
いつか帰ってきてくださるのを心待ちにしています。
 

Re:Re:というわけで

 投稿者:mori夫  投稿日:2006年11月24日(金)21時17分40秒
返信・引用
  「あなた何も分かってないね。」という言葉は、たしかに相手をカチンとさせるに十分なものと思います。(話言葉としてなら、それほどでもないけど、ネット投稿の、しかも冒頭にあるのなら。)

けれど橋本さんも、永久にここに来ないとは、おっしゃっておられないのだし、keizoさん、いましばらく、この板も板の名前も、このままにしておいては、くださいませんか。
 

Re: というわけで

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月24日(金)17時14分17秒
返信・引用
  > keizoさんにはアクセス制限をかけていただくか、それとも当掲示板自体の閉鎖になるのかな?とても残念です。
> (覚醒体験の部分は大変興味があるのですが、橋本さんの来られない掲示板では魅力半減です。)

こういうことになって、私もとても残念です。
思い返してみると「掲示板名物」などといって、
バトルをけしかけていた私にも責任のいったんはあると思います。
みなさん、どうもすみません。

私は、以前にもちょっと告白したとおり、
どちらかというと「保守派」「常識派」「体制内改革派」
「合理主義者」「効率主義者」という意味で、
「体質的」には渚さんに近い人間なのではないかと思っています。
そして、私には絶対まねのできない渚さんの理路整然とした論理構築能力や
弁論術のすばらしさに驚嘆もしていました。

ただ、私には渚さんのような「破邪顕正精神」がまったく欠如しているため、
時として、強弁とか決め付けが過ぎていると思われる快刀乱麻の「直言」が、
橋本さんの言う「ダイアローグ」として不適切であるとは感じていました。

でも、このあたりは渚さんの譲れない部分なのではないかと思います。
橋本さんも、その辺のことがよくお分かりなので、
これ以上の摩擦を避けられたのだと思います。

それから、今回の直接原因となった、渚さんの

<橋本さん、あなた何も分かってないね>

発言は、渚さんにしては珍しく冷静さを失った発言だったと思います。
後の渚さんの発言からの邪推ですが、きっと「好敵手」に
橋本さんが加担したかのように感じられたのかもしれませんが、
渚さんほどの方でも、こういう場合には「感情的」に
なってしまうのかもしれませんね。

「「12人の怒れる男」はアメリカンデモクラシーの良心を反映していない」
という橋本さんへの渚さんの反論は、理屈はわかるのですが
その強弁性が目立っていたと思います。

と、自分のことを棚にあげて、ながながと人様のことに
言わずもがなのことを申し上げましたが、
私としては、この掲示板を橋本さんの「日記」や「独り言」への
感想(ラブレター)欄として、もう少し開いたままにしておこうと思います。
いずれ、橋本さんにもご機嫌を直していただき、
再び、有益なコメントをいただけるよう、がんばってみたいと思います。

そんなわけで「アクセス制限」は、かけることができません。
「バトル」はここを使って続行していただいて結構ですが、
橋本さんにかまっていただかないとつまらないですね。
 

というわけで

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月24日(金)10時16分4秒
返信・引用
  追い込まれてトチ狂った半島スパイの荒らし屋(ぱち屋)のおかげで橋本さんが出て行かれました。

keizoさんにはアクセス制限をかけていただくか、それとも当掲示板自体の閉鎖になるのかな?とても残念です。
(覚醒体験の部分は大変興味があるのですが、橋本さんの来られない掲示板では魅力半減です。)

一介のリーマンで「成りすましオーナー」に胡麻をするしかない(英語でアップルポリッシャー)おっちゃんの鬱屈した心理がわからなくはないですが(会社では決してgoing my wayできない)、この掲示板をまるでうっぷん晴らしの場であるかのように稚拙かつ陰湿な荒らし行為を繰り返すのは、私(やkeizoさん)は面白がって相手にしましたが、他の皆さんには耐えられないのではないでしょうか(あ、moriさんは違うか(笑))

まあ、本人もいまの会社を辞めれば改心するとは思うのですが、かなりお年を召しておられるようなので、必死でしがみついているしかないのでしょうね。

どうでしょう、keizoさん。ここは一発タイトルを変えて、「おっちゃんを改心させるためのバトル掲示板」にしませんか?橋本さんがいなくなった今はもう「馬鹿、アホ」なんでもありってことで(爆)

私もネタはいっぱい持ってますし↓
---------------

「‘パチンコ送金’が遮断されれば、北朝鮮に決定的な打撃になる」

  北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議が再開されれば、協議の成敗を決めるカギは日本が握っていると、ランド研究所の国際経済研究員チャールズ・ウルフ氏が21日、ウォールストリートジャーナル(WSJ)への寄稿で主張した。

  ウルフ氏は、中国と韓国が北朝鮮を動かせる国として認識されているが、日本も大きな影響力を行使でき、その力は在日北朝鮮同胞の送金を認めるかどうかという点から出てくる、と指摘した。

  ウルフ氏は、日本国内で人気があるパチンコが成人の大衆娯楽として定着しているが、韓国人がこの業界のおよそ4分の1を掌握しており、ここから出てくる収益金のうち毎年2億ドル余が北朝鮮に送金されていると推定される、と明らかにした。

  また、ソ連崩壊で北朝鮮に対する無償援助国がなくなった後、中国と韓国が財政的な援助国に浮上したが、貨幣支援ではなく物的支援に集中しており、特に最近、米国の対北朝鮮金融制裁で武器販売および麻薬取引などを通した収入確保が不可能になった状況で、‘パチンコ送金額’は金正日(キム・ジョンイル)国防委員長が制限を受けずに確保できる唯一の現金だと指摘した。

  ウルフ氏はこうした観点から見ると、逆に‘パチンコ送金’が遮断されれば、北朝鮮に決定的な打撃になると考えられ、特に安倍日本首相が対北朝鮮送金に対する精密調査や送金制限措置に踏み切った場合、金委員長にとって大きな脅威になるはずだと予想した。
2006.11.21 16:52:09

中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=81993&servcode=500§code=500
 

going my way

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月24日(金)06時59分34秒
返信・引用
  渚さん

<橋本さん、あなた何も分かってないね>

橋本

<こういう高飛車なものいいはやめていただけませんか。そうでなければ、今後こうしたものいいをする人とは、議論をする気はありません。この点を了解してください>

渚さん

<僕は中途半端な知識人ではありませんので、相手が誰だろうとストレートに言わせて戴きます。今回に関して、あなたが全く分かっていないのは、少なくとも以下の二点において、勘違いと自己矛盾を曝け出していることです。・・・・渡り下手を自覚しつつも"going my way"を貫きます。悪しからず>

 よくわかりました。今後、渚さんと議論が出来ないのは残念ですが、仕方がありません。これまでいろいろとありがとうございました。

 なお、当掲示板を開設してくださった、keizoさんにも感謝しています。
しばらくのあいだでしたが、楽しいひとときを過ごすことが出来ました。
セルジオ越前さん、mori夫さんにも大いに感謝しています。
 

Re: 「エゴ」と多数決

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月24日(金)02時30分45秒
返信・引用
  > セルジオさん、橋本さん、渚さんのご意見をそれぞれ拝読いたしました。
>
> 先に書きましたように、私もこの問題をこの場で考える前には
> 「民主主義」と「多数決」はほとんど同義だと考えていました。
> そして、この「多数決」というシステムは
> 「衆愚」や「全体主義」や「独裁」を許す、
> 欠陥の多いシステムでありながらも、
> これ以外のシステムよりは「ベター」であるという理由で、
> 従わざるを得ないという思い込みがありました。

思い込みではなく、良識と現実感覚のある人なら常識です。

> 確かに、その意味で、「12人の怒れる男たち」に関する
> 渚さんの反論は、筋が通っていて、
> 「現実主義」的に社会的な諸決定事項を処理してゆくには、
> おっしゃるとおりなのではないかと思います。

当然です。社会的な諸決定事項を処理してゆくには他に方法はありません。

> ただし、「ニュアンス」として、
> よりよい周知を集める目的で「全員一致」を目指して
> 議論を尽くし、少数意見を大切にする、ことへの
> 渚さんの一種の「理想主義」への軽視と侮蔑があるように思えます。
> 橋本さんが「人間が守るべきもの」として大切にされているのは
> この理想主義といいますか、ヒューマニズムなのだと思います。
>
「理想主義」への軽視と侮蔑ではなく、理想と現実を峻別出来ない人に注意を喚起しているだけです。子供ではないのだから、社会的な諸決定事項を処理して行くスタンスで議論しなければ意味がありません。

> 「政治」は本質的に所詮「利益誘導」で
> 「数はパワー」「稼ぐが勝ち」の世界なのだから
> 青臭いことを言ってもらっては困る、
> という論理はどこか間違えていると思います。

これは完全に「好み」の問題であり、感情論でしかありません。理想を語り合う場は必要であり、それがなければ本当に豊かな社会は出来ないと思います。但し、社会的な諸決定事項を処理して行く場において、理想論を持ち出しても前進はあり得ないし、逆に問題処理の妨げにしかならないのです。

> 衆知を集め、よりよい政策を考え、よりよい意思決定をするためには
> 「多数決」はかなり危ういシステムであることを、
> 自覚すべきだと思うようになりました。

僕自身も、何度も書くように「多数決」というよりも、「民主主義」自体が危険性を内在していると思っています。しかし、ベストではないけれど、他に優る方法は見つからないと思います。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

Re: 少数意見とは?

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月24日(金)02時13分22秒
返信・引用
  > 「少数者の意見」とは、具体的に何を指すのか、それがはっきりしないと、不毛な神学論争みたいになってしまう気がします。
>
少なくとも「我田引水」ではなく、全体にも影響する意見であるべきです。そして、客観的にも正当性を証明でき、「警鐘」として機能する必要があるでしょう。

> 少数者のわがままのために、大多数が大迷惑を被るような事例であれば、「少数者の意見を尊重せよ」とは、誰も言わないでしょう。(そういえば人糞を自分の庭で煮ていた人物がいたっけ。)
>
往々にして「少数者のわがまま」のケースが目立ちます。

> 「少数者の意見を尊重せよ」と、教条主義的に頑迷に押し付けられて、にっちもさっちもいかなくなり、集団としての意思決定がいつまでたってもできない。そして社会が漂流する。そんな事態が発生したら、これこそが、もっとも現代的な「衆愚政治」ではないでしょうか。
>
ですから、最善ではないにせよ「多数決」で方向性を打ち出して先へ進めて行く必要があるのです。

> 十分な議論を経て多数決で決まったことは、尊重して従う。これは悪いことではなく、良いことでは? そういう分別こそが、現代では求められているのでは? (もちろんこの原則で、世界も日本も動いていますが。)

これが出来るのが「大人」であり、社会に参加する上での基本的なルールです。「mori夫」さんとは意見が合いますね。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

Re: 個人と社会(2)

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月24日(金)02時05分29秒
返信・引用
  > 個人の自由が高らかに憲法でうたわれている現代において、説かれるべき徳とは、個人の自由を保護することではなく、むしろ多数決で決まったことに、素直に従うことではないでしょうか。なんだかんだ言っても、アメリカがすごいなと思うところは、大統領選挙で負けた候補者が、勝った候補者を、「われわれの新しい大統領」と呼んで、敬意を表し賞賛することです。(全部の人ではないでしょうが。)
>

そのとおりです。「多数決」の嫌いな人は、大抵「自己責任」も嫌いであり、勝った候補者を、「われわれの新しい大統領」と呼んで、敬意を表し賞賛するなんてことはせず、「選挙に不正があった」などと喚き散らす輩です。自分のことだと思っている人が、少なくとも一人いますね。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

「2ちゃんねる」の、ひろゆき氏

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月24日(金)01時57分48秒
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  2ちゃんねる管理人、学園祭で講演

 失踪説が流れていた「2ちゃんねる」管理人、ひろゆきこと西村博之氏(29)が4日、早稲田大学の学園祭「早稲田祭」に登場し、講演会を行った。悪質な書き込みをめぐる訴訟で負け続け、巨額損害賠償金の支払い判決を無視し続けている。西村氏は「(裁判に)勝とうが負けようが払わなければ一緒」「僕に金を払わせたいなら、そういう法律を作ればいい」と独自の見解を語った。
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我が後輩が、こんな奴を学園祭に呼んだとは情けない限りですが、この記事を読んでまず脳裏を過ぎったのは「支離滅裂な40男」のことでした。「(裁判に)勝とうが負けようが払わなければ一緒」「僕に金を払わせたいなら、そういう法律を作ればいい」と独自の見解を語った、という辺り究極の自己中であり、セ氏ではなく「ひろゆき氏」にはいずれ司直の手が回るでしょうが、両者の精神構造にはかなりの類似点が挙げられます。

セ氏が「多数決」を嫌うのは、大いに納得出来る(もしくは当然の)理由があります。それは、常に少数派でしかあり得ないからです。これは決して「多数派に迎合しない」という崇高なレベルの話ではなく、普通の分別を備えた人からは絶対に相手にされない人生だからです。

そういう人にとって、頭を撫でてくれる人は滅多にいませんから、「腰巾着」を買って出ているのでしょうが、哀れですねー。生憎、僕は「腰巾着」や「太鼓持ち」とは180度対極に住む男ですから、世渡り下手を自覚しつつも"going my way"を貫きます。悪しからず。

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Re: 渚さんへ。

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月24日(金)01時38分57秒
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  > <橋本さん、あなた何も分かってないね>
>
> こういう高飛車なものいいはやめていただけませんか。
> そうでなければ、今後こうしたものいいをする人とは、
> 議論をする気はありません。
> この点を了解してください。

僕は中途半端な知識人ではありませんので、相手が誰だろうとストレートに言わせて戴きます。今回に関して、あなたが全く分かっていないのは、少なくとも以下の二点において、勘違いと自己矛盾を曝け出していることです。

1.陪審制は民主主義の理想とは無関係

陪審制は「全会一致」を前提に、"guilty" or "not guilty"の評決が求められます。これは制度だから「全会一致」で評決を出すに過ぎず、殆ど全ての場合は素人の陪審員が種々の制約の下で(多くは時間)、求めに応じて評決を出すだけです。支離滅裂な40男の「思い付き」で「12人の怒れる男」が飛び出した訳ですが、あなたはこれに「只乗り」しただけではないでしょうか。

陪審員は対象となる裁判に中立な立場であり、客観的な事実や論理的な正当性に基づいて、自己の利益と無関係に白黒を付けられますから、今回の議論の参考事例にはならないのです。

2.陪審制と少数意見の尊重は矛盾する

少数意見を尊重して、尚且つ「全会一致」の評決が出せると思うこと自体が論理性ゼロなのです。"guilty" or "not guilty"の間に灰色の評決はあり得ず、実態は「多数決」で「全会一致」の評決を出している筈です。「全会一致」の陪審制は、少数意見を尊重するから民主主義の象徴だ、なんてのは支離滅裂な40男のレベルです。

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少数意見とは?

 投稿者:mori夫  投稿日:2006年11月24日(金)00時18分27秒
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  「少数者の意見」とは、具体的に何を指すのか、それがはっきりしないと、不毛な神学論争みたいになってしまう気がします。

少数者のわがままのために、大多数が大迷惑を被るような事例であれば、「少数者の意見を尊重せよ」とは、誰も言わないでしょう。(そういえば人糞を自分の庭で煮ていた人物がいたっけ。)

「少数者の意見を尊重せよ」と、教条主義的に頑迷に押し付けられて、にっちもさっちもいかなくなり、集団としての意思決定がいつまでたってもできない。そして社会が漂流する。そんな事態が発生したら、これこそが、もっとも現代的な「衆愚政治」ではないでしょうか。

十分な議論を経て多数決で決まったことは、尊重して従う。これは悪いことではなく、良いことでは? そういう分別こそが、現代では求められているのでは? (もちろんこの原則で、世界も日本も動いていますが。)
 

民主政治はいかに可能か

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月23日(木)23時27分17秒
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   プラトンは真理は小数者の徳であり、大衆の多くは無知であると考え、政治に参加させるべきではないと考えました。こうした見地から、アテネの民主制には批判的でした。無知で教養のない大衆の多数意見に従うことは、真理をないがしろにすることであり、国の将来をあやまることだと考えたわけです。

 彼がこうした結論に達したのは、彼の師ソクラテスが民衆裁判で死刑を宣告された理不尽を見ているからだといわれています。彼はこうした多数決による民主主義は衆愚政治を招き、その先にあるのは独裁政治だと主張しました。

 こうしたプラトンの貴族的な哲人政治にたいする批判は当時からありました。その代表は、プラトンの弟子のアリストテレスです。彼は王制や貴族制、寡頭制を排して、あるべき政治体制は市民すべてが政治に参加できる民主制でなければならないと主張しています。

 アリストテレスは市民であることの資格を、血筋や富の所有ではなく、「審議と裁判に参与しうる能力の所有」においています。そしてすべての人間が基本的に理性を持っているかぎり、だれしも政治を行う能力も権利も持っていると考えました。

 彼は真理は「論理」だけではなく「経験」も大切だと考えました。論理は一つだが、人々の経験は多彩です。だから、たとえ哲学者でも、真理をひとつに定めることは容易ではありません。さまざまな視点から、さまざまな考え方が提起されます。こうした真理の持つ他面性を否定することはできないからです。

 アリストテレスは政治的決定をする場合は、とくにこの点に留意すべきだと考え、政治を少数者の独占にまかせることには反対しました。彼は師プラトンとは違い、市民が平等な立場で政治に参加するアテネ民主主義を擁護しています。

 それではどうしたら、プラトンのいう衆愚政治から免れることができるのか。それは、結局のところ、各人が私欲をさって、公正な判断をすることです。アリストテレスはそのために、市民全体の教育レベルを高めることが必要だと考えました。「審議と裁判に参与しうる能力」を持ち、さまざまな経験をもつ市民によって慎重に審議すれば、その衆知によって真理が達成されると考えたわけです。

 この考えは、のちにロックやミルに受けつがれました。ミルは民主主義が衆愚政治に陥らない歯止めは「少数意見の尊重」だと言っています。少数意見をいかに尊重できるか、これが健全な民主政治のバロメーターだと言ってもよいでしょう。
 

ぱち屋も

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月23日(木)22時31分28秒
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  内心いろいろな葛藤があるのだろうが、ついに橋本御大にまで「あたる」とは見下げ果てたものです。
少年に自分の弱さを投影して、執拗に攻撃するも、最後にすすり泣きながら他の11人に同意する『12人の怒れる男』のおっさんにそっくりだ。
 

民主主義の実相

 投稿者:mori夫  投稿日:2006年11月23日(木)20時58分57秒
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  すべての情報、すべての議論が、すべて公開された上での国民的投票ならば、私は正しい結論が得られると考えています。こういう、社会のいわば「マスの力」を、私は信じます。これが信じられないのであれば、それはそうとう深刻な人間不信であり、山へこもるか、自殺するしかなくなるでしょう。(あるいはオウムの麻原みたいに、自分が独裁王になって世界支配をたくらむか。)

ネット世界でも、多くの人が「衆愚政治の危険性」を語りますが、誰も自分がその「衆愚のうちの一人」だとは思わない。(民衆侮蔑思想です。)

ある人は思い込みの強いインテリ的正義感から、ある人は既得権益への執着から、ある人は候補者の顔の好き嫌いから、ある人はニュース情報のわずかなひとこまから、勝手に判断して「衆愚投票」をしてしまいます。でも全体としては、「まっとうな結果」が得られる。そういうものがすべてミックスされることによって、「よりよい結果」が得られる。私はそう信じます。

もちろん私も衆愚のひとりです。特権的地位には、誰もいない。これはいいことです。これが民主主義の実相では?
 

個人と社会(2)

 投稿者:mori夫  投稿日:2006年11月23日(木)20時23分37秒
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  個人の自由が高らかに憲法でうたわれている現代において、説かれるべき徳とは、個人の自由を保護することではなく、むしろ多数決で決まったことに、素直に従うことではないでしょうか。なんだかんだ言っても、アメリカがすごいなと思うところは、大統領選挙で負けた候補者が、勝った候補者を、「われわれの新しい大統領」と呼んで、敬意を表し賞賛することです。(全部の人ではないでしょうが。)

こういう道徳(多数者に対する配慮)が行き届いている社会においては、弱者を無視するような「多数者」も生まれない。かえって個人や少数者の自由をことさら強調することが、相手に対する思いやりの薄い不毛社会を築く危険性がある。いまの日本は、この悪弊に陥っていると、私は感じます。

(アメリカが弱者を無視しない社会だって? 嘘言うなよ。←自己つっこみ)
 

個人と社会

 投稿者:mori夫  投稿日:2006年11月23日(木)20時07分45秒
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  多数決で決めなければいけない問題(もちろん十分に議論をつくしたあと)と、決めてはいけない問題があるのではないでしょうか。前者の問題を、全員一致が得られないからと言って、放置したり流したりしたら、責任者は厳しく非難されなければならないでしょう。

後者の問題とは、個々人の信教、信条、趣味に関することで、それが他者への迷惑とならないものかな。

一般論としてですが、いわゆる「左翼的」とか「左巻き」の人々は、「弱者(少数者)は基本的に善良で無垢であり、彼らの立場や意見を尊重して、彼らを守るのが正義である」 という考え方をするようです。在日朝鮮人の人権や「強制連行」問題を声高に叫ぶ人は、ていてい、同性愛者の擁護者でもある。

少数者の立場や意見を尊重すべし、というのは、その言葉だけでは賛成できないです。他人や社会への迷惑をかえりみない、わがままや、独善や、偏執が、ときおり見られるから。こういう人たちは、多数決により、その自由を奪われても、仕方がない。

かと言って、他人や社会に迷惑をかけなければ何をしたっていい、という考え方も、正しいわけがないですよね。女子高校生の援助交際など、その典型かな。個人が守られなければならないと同様に、社会もまた、守られなければならない。
 

私の職場の話

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月23日(木)15時51分25秒
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   私は7つの高校で7つの職場を経験しましたが、職場の意思決定をする方法は、それぞれさまざまでした。校長の独裁ですべてがきまる職場もありましたし、それとは逆に職場の話し合いですべてが決まる学校もありました。そのいずれにも長所と欠点があると思っています。

 現在の職場はある意味でそのバランスが絶妙にとれているのではないかと思います。たとえば、これはだいぶん前ですが、学校の創立記念日に生徒や先生に何かを出そうということになり、「まんじゅう」がいいか「ケーキ」がいいかで「多数決」をとったことがあります。饅頭の好きな私はまんじゅうに賛成したのですが、残念ながら多数決の結果ケーキになってしまいました。もしここで「多数決」を取らなかったら、どうにも解決はできなかったと思います。これは個人的な嗜好の問題ですからね。

 さて、これは2ケ月ほど前のことですが、私の学年からある提案をさせてもらいました。1年の3人の担任の合意として、私が主任なので、私から教務部にはかり、教務部で全員一致の合意を得られたので、教務部長から職員会議にはかってもらいました。

 ところが、一人だけこの提案に反対する先生がいました。そこで継続審議にして、その間に、私はその先生と個人的に話し合いを持ちました。しかし、私はついに彼を説得することはできませんでした。彼にも彼の信念があり、譲ることはできないのです。

 2回目の会議の時もその先生が反対論を述べ、結局合意に至りませんでした。そして、全員の合意が得られなかったということで、提案は廃案になりました。

 私は残念でしたが、提案に反対した先生を説得できなかったのは、提案した側の力量不足であり、やはり私たちの提案に無理なところがあるからだと思いました。この溝が埋らない限り、これは多数決で通すべきではないと思いました。

 そしてこれは、この提案に賛成した先生全員の考えであり、提案を廃案にすることについては、だれひとり異議をとなえる人はいませんでした。

 「多数決」で決すべきか、それとも「全委員一致」を尊重すべきか、それは案件もよります。しかし、教育の根幹に関する提案については、少なくとも「全員一致」をよしとするコンセンサスが私の職場にはあります。私はこうした一人一人の意見を尊重し、誠意を尽くそうとする人々のあつまりである職場を、たいへん誇らしく思っています。
 

渚さんへ。

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月23日(木)14時58分12秒
返信・引用
  <橋本さん、あなた何も分かってないね>

こういう高飛車なものいいはやめていただけませんか。
そうでなければ、今後こうしたものいいをする人とは、
議論をする気はありません。
この点を了解してください。
 

「エゴ」と多数決

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月23日(木)11時12分40秒
返信・引用
  セルジオさん、橋本さん、渚さんのご意見をそれぞれ拝読いたしました。

先に書きましたように、私もこの問題をこの場で考える前には
「民主主義」と「多数決」はほとんど同義だと考えていました。
そして、この「多数決」というシステムは
「衆愚」や「全体主義」や「独裁」を許す、
欠陥の多いシステムでありながらも、
これ以外のシステムよりは「ベター」であるという理由で、
従わざるを得ないという思い込みがありました。

確かに、その意味で、「12人の怒れる男たち」に関する
渚さんの反論は、筋が通っていて、
「現実主義」的に社会的な諸決定事項を処理してゆくには、
おっしゃるとおりなのではないかと思います。

ただし、「ニュアンス」として、
よりよい周知を集める目的で「全員一致」を目指して
議論を尽くし、少数意見を大切にする、ことへの
渚さんの一種の「理想主義」への軽視と侮蔑があるように思えます。
橋本さんが「人間が守るべきもの」として大切にされているのは
この理想主義といいますか、ヒューマニズムなのだと思います。

「政治」は本質的に所詮「利益誘導」で
「数はパワー」「稼ぐが勝ち」の世界なのだから
青臭いことを言ってもらっては困る、
という論理はどこか間違えていると思います。

衆知を集め、よりよい政策を考え、よりよい意思決定をするためには
「多数決」はかなり危ういシステムであることを、
自覚すべきだと思うようになりました。

ちょっと飛躍しますが、以前にちょっと話題になった
「エゴ」と「セルフ」を引き合いに出すのなら、
「多数決」は「セルフ」の立場に立って行使されるのなら有効に
機能すると思いますが、
選挙民の「エゴ」が前提として行使される場合、
やはり、「衆愚」、「全体主義」、「独裁」に結びついてしまう
システムとなってしまうと思います。
 

Re: 民主主義の原点

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月23日(木)09時54分59秒
返信・引用
  > <原点が「全員一致」かどうか僕は知りませんが、仮にそうだとしても、それは理想であって、「全員一致」など非現実的です>
>
>  たしかに効率は悪いですが、「全員一致」が民主主義の原点であることはまったくその通りです。アメリカン民主主義の精神を描いた「12人の怒れる男たち」はすばらしい映画でした。
>
> 「全員一致」を非現実的と切り捨てるのではなく、こうした高邁な理想に向かって、しぶとく努力することが、すなわち「民主主義」というものではないかと思います。


橋本さん、あなた何も分かってないね。「12人の怒れる男たち」は、孤軍奮闘して「無罪」評決を導き出した人物の「熱意と勇気」を讃えた作品であって、アメリカン民主主義の精神を賛美しているものではありません。逆に、彼が最初から「有罪」を決め込んだり、簡単に妥協していたら、「全員一致」によって「有罪」が即座に決まり、恐らく無実の容疑者は死刑になったことでしょう。これは、「全員一致」の恐ろしさの証でもあります。

更に言えば、陪審員の評決は「全員一致」が決まりですから、民主主義ではありません。「全員一致」が求められる以上、殆どの場合少数意見は引っ込めざるを得ない状況となるでしょう。「12人の怒れる男たち」はフィクションであり、実話だったとしても極めて稀なケースに過ぎないでしょう。また、陪審員は中立の立場ですから、新たな事実や論理的な説得に直面すれば、然程の抵抗もなく意見を変えることが出来ます。

利害が絡む場合、個人や組織は夫々の立場に基づき「論理」を構築します。そして、それ自体は個々に筋が通っているのです。こういう場合でも「全員一致」に拘る人は、実務経験に乏しく(多くの場合ゼロ)、現実感覚が欠落した「浮世離れ」の人物に過ぎないのです。複数の選択肢が認められる場合もありますが、こういうケースは然程重要性が高くなく、重要案件ほど二者択一が求められます。そして、時間や投入資源も限られているのが殆どの場合ですから、期限内に集団としての意志を決定せざるを得ないのです。

この場合、一定レベルの納得が得られないとしても、多数決で決めるのが一番問題が少ない対応だと思います。これは僕の個人的見解というよりも、昔から実社会で用いられて来た方法であり、これに屁理屈や現実を無視した学説で抵抗しても、世間が認めないことでしょう。

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民主主義と論理(資料)

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月23日(木)06時49分2秒
返信・引用
   民主主義は論理重視から (03年7月29日の橋本日記より)

 一昨日の日記「数学軽視の日本社会」について、スピンさんが「数学軽視は論理軽視である」として、こんな書き込みをしてくれた。

<民主主義が機能不全に陥りがちなのも、「論理」軽視に由来すると私は思います。R.P.Feynmannが書いているように、ある行動の自由が正当化されるためには、厳密な論理ではどのように行動するべきかを決めようがないという条件が必要です。また、こうした自由を持つ国民が論理的には決定できない政策的判断を行うために、多数決が必要となります。そして、どこまでを論理的に判別できるかを明らかにするために言論と議論が必要になります。

ところが、論理が軽視される社会では、論理的には誤りとはっきりしているような犯罪や失政に対して、自由が主張され、他方では、論理的には正当化しようのない個人的な恣意によって自由が侵害されてしまいます。このように、自由の意味がはきちがえられているので、議会での議論、多数決も機能しなくなります>

 本当の自由は論理的必然の上に築かれるというファインマンの指摘はその通りだと思う。ラッセルもどこかで同様の思想を述べていた。私も以前、この問題を考察したことがある。

<言語は論理と呼ばれる普遍的な構造によって、我々の精神にある客観性と合理性を与えます。この客観性と合理性こそ、真理と呼ばれるに値するものの土台であり根底なのです。人間を人間たらしめているものは言語であり、人間をその根底で支えているものは言語だと言えるのです>
(「人間を守るもの」第二章精神と言語、言語の恩寵)

 人類として初めて、論理的な言語の使用に目覚めたのがギリシャ人だ。彼らが発明した学問や民主主義という制度の根底には論理的な言語に支えられた「言論の自由」がある。

 民主主義を論理的に考察し、三権分立にもとづく議会制民主主義を提唱したジョン・ロックは「自由を生み出すものは法である」と書いている。民主主義という制度はこうした論理的な言語とそれによって保障された言論の自由によって支えられているわけで、「論理軽視の社会」に民主主義が根付くわけはない。

 ここで思い出すのが、映画「12人の怒れる男」だ。これは北さんに薦められて見たのだが、見事に民主主義社会における言論の大切さを描いている。北さんの解説を引用しよう。

<映画の主人公は、状況証拠として取り上げられていた証言の疑問点を、一つ一つ論理的に、根拠をあげて証明していきます。民主主義のルールとして確立された「判決は全員一致」と「疑わしきは罰せず」によって、一人の人間の「言語の論理性」が、少年の命を救うことになります。

 12人の陪審員の中には「言語の論理性」が身についていない人物が登場します。その人物は「スラムで育った奴らは人間のクズばかりだ。やつらは嘘つきのろくでなしで絶対信用できない」という先入観に凝り固まった発言を繰り返すばかりで、まったく論理性がありません。有罪に固執する最後の3人の1人になりますが、彼の発言をみんな無視します。そして仲間であるはずの3人のうちの1人からも「あなたの話は金輪際聞きたくない」と言われてしまいます。

<民主主義の前提は言語の論理性>をこれほどみごとに描いた場面はありません。しかし、「民主主義」「本当の自由」が現実問題として実現されるためには、もう一つ重要な要素が必要になります。それは「勇気」です。「12人の怒れる男」は、1人の人間の勇気によって、命が救われる物語でもあります。

 最初にただ1人無罪に挙手する人物がいなければ、民主主義のルールとして確立された「判決は全員一致」も生かされることがありません。11人を敵に回し、その嘲笑、罵倒にひるまずに対抗していくためには、そうとうの勇気が必要です。勇気がなければ「言語の論理性」を駆使すること自体が始まらないのです。

 私は「12人の怒れる男」を少なくとも100回は観て、ヘンリー・フォンダ演じる主人公の「勇気」がどこから出てくるのかを考えました。そして、たどり着いたのは、彼の「教養」でした。彼が勇気をもてたのは、彼が真の大人の「教養」を身につけていたからだと思います。

 その「教養」とは、人間に対する愛情を核として構築された<民主主義という人間を大切にする最高の理念>ということです。この理念がしっかり身についていたからこそ、どんな非難にも耐えられたのだ、ということが、この映画では実に自然に理解できるように作られているのです>

 「12人の怒れる男」は民主主義の絶好の教材である。これを授業で生徒に見せ続けてきた北さんの努力に敬意を払いたい。ここに引用した北さんの文章は、この映画について私が読んだもっともすぐれた解説である。
 

民主主義の原点

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月23日(木)05時52分56秒
返信・引用
  <原点が「全員一致」かどうか僕は知りませんが、仮にそうだとしても、それは理想であって、「全員一致」など非現実的です>

 たしかに効率は悪いですが、「全員一致」が民主主義の原点であることはまったくその通りです。アメリカン民主主義の精神を描いた「12人の怒れる男たち」はすばらしい映画でした。

「全員一致」を非現実的と切り捨てるのではなく、こうした高邁な理想に向かって、しぶとく努力することが、すなわち「民主主義」というものではないかと思います。
 

Re: 民主主義の原点は「全員一致」

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月22日(水)23時57分24秒
返信・引用
  > 多数決は「時間がない」場合に「効率的」に会議を進めるための非常手段と考えるべきであり、痔民&カルト宗教が連発する「強行採決」こそ、まさにマイノリティ(極悪なりすまし朝鮮族)が日本を乗っ取るための常套テクニックなのである。
>
> アメリカンデモクラシーの原点は「全員一致」。議論が尽きるまで少数者の意見に耳を傾けることこそが民主主義の基本であり、マナーである。「多数決がベスト」などとほざく未熟な馬鹿者は、アメリカの古典名画『12人の怒れる男たち』に学びなさい。

『12人の怒れる男たち』は特殊な状況が舞台であり、一般的に通用する話ではありません。ましてや、フィクションですから、これを引き合いに出すのが君の救われないところです。また、陪審員の評決ですから、各人は中立の立場で事実や論理を客観的に評価でき、客観的に「無罪だ」と納得出来れば異論の出る余地などありません。この例は、ヘンリー・フォンダ演ずる男の熱意と勇気を讃えるべきであり、アメリカンデモクラシーの原点とは無関係です。

原点が「全員一致」かどうか僕は知りませんが、仮にそうだとしても、それは理想であって、「全員一致」など非現実的です。「時間がない」というか、「時間無制限の状況はあり得ない」というのが社会の現実であり、状況に応じて適当なタイミングで採決しなければ、社会は成り立たないのです。日本の野党は「反対のための反対」が常態化していますから、無限に付き合ったところで「全員一致」は期待できません。

>痔民&カルト宗教が連発する「強行採決」こそ、まさにマイノリティ(極悪なりすまし朝鮮族)が日本を乗っ取るための常套テクニックなのである。

何度も書いてますが、「妄想と願望」に基づき、差別的発言や誹謗中傷は止めて、論理的な反論をしなさい。まあ、無理だから「憎まれ口」に終始するんだけどね。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

民主主義の原点は「全員一致」

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月22日(水)23時21分48秒
返信・引用
  多数決は「時間がない」場合に「効率的」に会議を進めるための非常手段と考えるべきであり、痔民&カルト宗教が連発する「強行採決」こそ、まさにマイノリティ(極悪なりすまし朝鮮族)が日本を乗っ取るための常套テクニックなのである。

アメリカンデモクラシーの原点は「全員一致」。議論が尽きるまで少数者の意見に耳を傾けることこそが民主主義の基本であり、マナーである。「多数決がベスト」などとほざく未熟な馬鹿者は、アメリカの古典名画『12人の怒れる男たち』に学びなさい。
 

少数決≒多数決

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月22日(水)21時24分53秒
返信・引用
  少数決の場合、戦略的投票という考え方があり、多数派が意図的に反対票を投じれば、賛成票が少数となり、結果的に賛成意見が通ります。結局、最善ではないが次善の策として、多数決が集団的意思決定に使われているのです。

民主制は衆愚制や独裁制に陥る危険性を内在しているものの、少数意見が通ってしまう方がより危険ではないでしょうか。「多数決は民主制と深く関連したものとされているが、必ずしも民主制において必須な物ではない」というのは学説であって、現実社会は多数決で動いているのです。「個々の意志の互譲や切り捨てが必ず伴う」のは人間社会の実態であって、夫婦や親子、親しい人同士でさえ譲り合いで成り立っているのです。

また、人間(動物も同じ)集団には必ずリーダーが存在しますから、「意思決定が少数の人間に主導されて行われている」のは当たり前のことであって、「最少勝利連合」という言葉が耳新しいだけなのです。「多数決は民主制と深く関連しており、民主制を採用する国家や団体において、現実的な採決の手段として殆ど全ての場合に適用されている」というのが実態です。こういう社会の「安全弁」は定期的に実施される「民主的な選挙」であり、それまでの与党も民意を失えば下野せざるを得ないのです。

橋本さんはジョン・スチュアート・ミルを引き合いに出され、「『少数意見の尊重』こそが民主主義の原点だ」と述べておりますが、それは議論する過程における基本的ルールに過ぎず、それは政治的次元以前にマナーの問題でもあります。現実的な次元において、「民主主義=多数決」であり、少数派が多数派を牛耳るような社会は独裁制であり、不健全で恐ろしい社会です。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

少数決?

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月22日(水)20時07分33秒
返信・引用
  皆さんの熱のこもった議論に気後れして参戦できないでいましたが、Wikipediaの「民主主義」や「多数決」の項目を見て、
多少思うところがあったので、無意味な介入をさせていただきます。

まず、ひとつ思ったことは、

<ある集団の全ての構成員個々からの意見表明を元にして、その集団が採用する意思決定するための、演算手順である。一般には単記非移譲式投票を指す。民主制と深く関連したものとされているが、必ずしも民主制において必須な物ではない。多数決で少数派を切り捨てるのではなく、全員が納得するまで議論し続ける形の民主制もあり得る。また、どんな二人の人を選びだしても、十分細部まで比較すれば、同一の意志を共有することはない。従って多数決には、個々の意志の互譲や切り捨てが必ず伴う。単純な多数決は衆愚政治へとつながる危険性をはらんでいる。>
(Wikipedia「多数決」より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%95%B0%E6%B1%BA

とあるように、渚さんも指摘するように、
私も「民主主義」と「多数決」は、ほとんど同義だと考えていたのですが
学説的には必ずしも「必須」なものではない(つまり橋本さんのご意見)
ことがわかり、自分の無知を思い知りました。

また、かねがね、「多数決」のシステムは
注意深く運用しないと「独裁者」を許すシステムなのではないかと
考えていましたが、この問題については、「最少勝利連合」
という考え方があることを知りました。

(参考)
<多数決を非民主的なものにしてしまう要因として当初から存在するのが最少勝利連合である。ここで、A・B・C・D・E・F・G・H・Iの9人からなる集団で議決を行うとする。

9人のうち利害の一致するA~Eがカルテルを組んで常に同じ投票をするよう密約すれば、F~Iは常に排除されてしまうことになる。
さらにA~Cがその集団の中でも利害が一致して主導権を握り、
さらにA~Cの中でもAとBが・・・・・・
となり、最終的には個人間の力関係でAの独裁状態となってしまう。

実際に日本の政治に於いても、「常に政権を握る連立与党」があり、その中に「第一党」があり、その党内に「最大派閥」があり・・・・・・という形で、意思決定が少数の人間に主導されて行われているという見方もできる。>

また、多数決の逆の「少数決」という意思決定手段があり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E6%95%B0%E6%B1%BA
こちらは、一歩進めると「不人気投票制」ということになり、
「独裁者の排除」という意味では、組織票や「最少勝利連合」
が不可能になり大変有効な手段になりえるのではないかと思いました。

つまり、この人だけは、この政党だけは危険なので
彼(彼ら)だけには絶対に政策を左右させたくない
という意味で一票を投ずるという方法です。
この方法をとると、ある宗教団体をバックにする候補の
ほとんどは「得票多数」で落選してしまうでしょう。
 

■[情報の評価]小泉→安倍「ヤラセTM」の深層/情報専制化で消された小数意見

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月22日(水)10時35分42秒
返信・引用
  以前橋本掲示板でご紹介した「toxandriaの日記」にとても参考になる記述がありました。
(今週は夜遅くまでバタついていますが明日は休日なのでパチ屋のおっちゃんに第三弾の質問してやるから、楽しみに待ってろよ!)

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/

<冒頭で引用した記事「toxandoriaの日記/福島知事選・自民敗退に見る本格的な「ロングテール時代」の予感」の中で“「ロングテール効果」(ロングテールの原義は長い尻尾/ロングテール効果は、パレートの法則による独占・寡占とは正反対の効果で、「少数派」が「多数派」に対して十分に伍し得る可能性を切り拓くと考えられる)とは、今回のアメリカの中間選挙でも“草の根民主主義型”選挙の部分的な下支えとなり、民主党に大勝利をもたらすことに大いに貢献したと考えられる、インターネットがもたらすユニークな効果のことです。我が国でも最近の福島県知事選挙や福岡市長選挙で民主党の推薦候補に軍配が挙がった要因の一つとして、このような“草の根民主主義”の芽生えが考えられます(なお、沖縄県知事選挙では旧来の宗教団体・企業等による組織型選挙(広い意味でも、狭い意味でもカネを使った選挙)が自民党推薦へ勝利をもたらしたと思われます)。>
 

Re: 民主主義についての私見

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月21日(火)22時20分30秒
返信・引用
  >  民主主義とはたんに「多数の意見に従うこと」ではありません。ただ多数に従うというだけだったら、議会はいらないでしょう。ヒットラーが連発したように、国民投票をすればよいのです。そしてこれが実はファシズム(全体主義)の正体です。

とはいえ、最終的には多数決で決まります。議会がなければ、何が多数かも分かりませんし、意見を戦わせることで新たな局面が出てくることもあります。逆に、少数派の意見に無理があることが暴露されることもあります。従って、議論の最初の多数派意見が最後まで多数派とは限りませんし、議論を尽くした後の採決で物事が決まることが現実的にベストだろうと思います。

国民投票=ファシズムは暴論です。投票段階では不確定要素が少なからずあり、どちらに転ぶか分かりません。また、反対派にもPRの機会が与えられており、そのプロセスにおいて世論を導けなかったとしたら、負けは負けなのです。結果として国が不幸な方向へ進んだとしても、それは民主主義に内在する不完全さの証であり、国民が賢くなる以外に防ぎ様がないのです。

独裁制に移行した後では取り返しが付きませんが、民主主義国家なら選挙で与野党が入れ替りますから、即効性はないものの次の選挙で軌道修正が可能です。米国は二大政党で成り立つ国であり、民主・共和の入れ替りでバランスが保たれています。

>  ファシズムといえば、ヒトラーや日本の軍部独裁を思い出す人も多いと思います。そのイメージは一部の独裁者が大勢の民衆を権力で押さえつける姿です。ところがこれはファシズムのすべてではありません。ファシズムの本質はむしろ大多数の民衆が少数者の人権を蹂躙する全体主義にあります。つまり多数決の論理は、民主主義の論理よりもファシズムの論理として働くのです。

顔のないファシズムは歴史上皆無です。この問題は別途議論するとして、大多数の民衆が少数派の「人権」を蹂躙することがあるのでしょうか。実例を挙げて下さい。勿論、少数派には色々な局面でハンディがありますが、ハンディがあることと「人権蹂躙」との間には大きなギャップがあると思います。「人権蹂躙」に至るには、迫害する側に明確な悪意が存在する訳ですが、迫害される側に明らかな落ち度がない限り、普通の人達が迫害者になることは考え難いと思います。通常、迫害者は権力の手先であり、普通の人は自分への後難を恐れて遠巻きに観ているに過ぎません。従って、積極的に「大多数の民衆が少数者の人権を蹂躙する」というのは、特殊なケース以外考えられないのです。

>  これに対して、「民衆の一人一人の意見を大切にすること」が民主主義の精神です。まず第一に議会は「少数者の意見を聞く場所」です。そしてそのうえで、少数意見を吟味し、多数意見のあやうさを克服することが大切です。こうしたプロセスをとおして、民主主義がまがりなりに実現されます。

「少数者の意見を聞く」ことと「少数者の意見に従う」ことは全く別です。最初に述べたように、議会では色々な角度や立場から案件への議論を尽くし、物事の本質や利害得失を明らかにして議員全員が共通認識に立った上で採決し、多数派の意見が通る訳です。勿論、それが正しい訳でもなく、将来に禍根を残す可能性だってありますが、それでも所定の手続きに則って決まったことは合法的であり、それに従わない場合は逮捕され有罪判決が出ても仕方がないのです。納得が行かなければ、民主的手続きを踏んで反対意見を多数派にする民意形成が必要です。

如何に正論であっても、多くの人が支持してくれなければ無力であり、それでも自説の正当性を強弁するならば、大人の良識を疑われることでしょう。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

民主主義について(資料)

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月21日(火)07時55分57秒
返信・引用
  自由と秩序 (2005,11,5橋本日記)

 個人の自由と社会の秩序をどう調和させるかということは、いつの時代でも大きな問題である。個人の自由を尊重し、これに重きを置くべきたとする人と、社会の秩序を重んじ、個人の自由は制限されるべきだとする人がいる。

 しかし、個人の自由か社会の秩序かという二項対立はディベートとしては面白いが、あまり実りあるものをもたらさない。なぜなら、個人の自由は秩序のよく保たれた良質な社会があって可能なことであり、良質な社会もまた自由な個人の存在に支えられているからだ。

 自由な個人を希求することと、秩序の維持された良質な社会を希求することは、何も矛盾することでも対立することでもない。それは車の両輪のように、助け合って機能し、おたがいを前進させる。

 こうした観点にたって、とくに「言論の自由」を尊重する良質な個人主義論を展開したのが、ジョン・スチュアート・ミル(1806~1873)である。彼はとくに「少数意見の尊重」こそが民主主義の原点であり、社会に多大な利益をもたらすものだと主張している。彼の「自由論」(1859年)から引用してみよう。

<個性の自由な発展は幸福の主要な要素である。それはまた、文明、知識、教育、教養といった言葉で表現されているもの必須の要素でもある。このことが痛感されているならば、自由の軽視される危険は存在せず、自由と社会による統制との境界を調整することについても、特別の困難を惹起しないであろう。

 不幸なことに、一般の考えによると、個人の自発性が固有の価値をもち、それ自体のゆえに尊敬に値するものであることは、ほとんど認められていない。大多数の人々は、現在のままの習慣に満足しているので、これらの習慣が必ずしもすべての個人にとって満足すべきものではないわけを理解することができない>

<意見の発表を沈黙させるということは、それが人類の利益を奪い取るということなのである。それは現代の人々の利益を奪うとともに、後代の人々の利益をも奪う。それはその意見をもっている人の利益を奪うだけではなく、その意見に反対の人々の利益さえ奪う。

 もしその意見が正しいものならば、人類は誤謬を捨てて真理をとる機会を奪われる。また、たとえその意見が誤っていても、これによって真理は一層明白に認識され、一層明らかな印象を与えてくれる。反対意見を沈黙させるということは、真理にとって少しも利益にならない>

<対立する二つの意見のうち、いずれか一方が他方よりも寛大に待遇されるだけではなく、特に鼓舞され激励されるべきだとすれば、それは少数意見の方である。少数意見こそ、多くは無視されている利益を代表し、またその正当な分け前にあずかることができないという恐れのある人類の福祉の一面を代表している意見なのである>

<反対者の意見をありのまま受け止める冷静さをもち、反対者に不利になるようないかなる事実をも誇張せず、また反対者に有利となる事実を隠そうとしない人々に対しては、彼らがどのような意見をもっていても、敬意を払わねばならない。

 これこそは公の道徳である。この道徳はしばしば守られていないが、これを誠実に守っている人がいて、さらに守ろうとして良心的に努力している人々も大勢いる。このことを私はとても嬉しく思っている>

<人間は間違いをおかすものだ。そして真理と考えられているものも、その多くは不十分な真理でしかない。意見の一致が得られたにせよ、それが対立する意見を十二分に比較した自由な討論の結果でない限り、それは望ましいことではない。

 人類が現在よりもはるかに進歩して、真理のすべての側面を認識できるようになるまでは、意見の相違は害悪ではなくてむしろなくてはならぬものである。そしてこのことは、意見の相違だけではなく、人間の様々な行動においてもいえる。社会の発展のためには、異なった意見が存在していることが有益であるのと同様に、異なった生活の実験が存在していることもまた有益なのである>

 ミルはこの著によって「自由」がいかに社会に有益で重要なものであるかをあきらかにした。民主主義もまたこの「自由」の培地の中で育つわけだ。こうしたすぐれた古典が学校で教えられ、家庭で読まれて、もっと多くの人々に共有されれば、民主主義や個人主義について世間に流布する誤解もおおかた解消するだろう。
 

民主主義についての私見

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月21日(火)07時46分59秒
返信・引用
   民主主義とはたんに「多数の意見に従うこと」ではありません。ただ多数に従うというだけだったら、議会はいらないでしょう。ヒットラーが連発したように、国民投票をすればよいのです。そしてこれが実はファシズム(全体主義)の正体です。

 ファシズムといえば、ヒトラーや日本の軍部独裁を思い出す人も多いと思います。そのイメージは一部の独裁者が大勢の民衆を権力で押さえつける姿です。ところがこれはファシズムのすべてではありません。ファシズムの本質はむしろ大多数の民衆が少数者の人権を蹂躙する全体主義にあります。つまり多数決の論理は、民主主義の論理よりもファシズムの論理として働くのです。

 これに対して、「民衆の一人一人の意見を大切にすること」が民主主義の精神です。まず第一に議会は「少数者の意見を聞く場所」です。そしてそのうえで、少数意見を吟味し、多数意見のあやうさを克服することが大切です。こうしたプロセスをとおして、民主主義がまがりなりに実現されます。
 

Re: 質問その2

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月20日(月)20時04分32秒
返信・引用
  > 多数を得たものが「民意」であり、「民意」で決められたものには盲目的に従うべし、という考えならば、たとえば
> 選挙の際に、創価学会やその他統一協会など半島系カルト宗教を総動員してゲットした多数票も「民意」が反映された」とみなし、それでも「多数決なので仕方がない」「これが民主主義だ」と思っているわけですか?


そのとおりです。それが民主主義ですから。創価学会の組織票は底堅いものがありますが、もう随分前から頭打ちです。統一教会の組織票などは更にマイナーな存在です。

逆に、「学会員の投票は真の民意を反映していないから無効だ」なんて言い分が通ると思いますか?それこそ、反民主的な思想ですよ。

民主主義とは完璧なものではありません。衆愚政治に陥る危険性や、ワイマール共和国がナチスに蹂躙された前例のように、独裁制に嵌り込む危険性が常に付き纏います。その危険性を排除するには、市民一人一人が歴史を紐解き、自分で考え、自己責任で投票するしかありません。

その意味において、貴兄が珍説奇説を喚き散らすことにも、何等かの評価を与えるべきだし、その権利は守られねばなりません。そして、君の訴えが真に多くの人の心情を揺さぶるものであれば、その時はじめて「警鐘」として機能することでしょう。

そのためには、君自身がガセネタに飛び付かず、じっくり吟味して発言すべきです。また、思慮深い人から「軽薄」と思われないよう、アカデミックなレベルで真偽をチェックする必要があるし、差別的発言や誹謗中傷は大いに謹むべきですね。

最後に補足しますが、民主主義の現実は多数決です。結果が全てです。これに対して泣き言を言ってもはじまらないのです。買収による投票は無効ですが、宗教団体や労働組合、更には何等かの利益集団にによる組織票は違法ではありません。この現実を直視しましょう。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

民意

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月20日(月)07時58分59秒
返信・引用
  「民意」をめぐるお二人のディベート、たいへん興味深く拝見しています。とても深くて大切な内容だと思いますので、続けて下さいね。  

質問その2

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月20日(月)07時52分40秒
返信・引用
  多数を得たものが「民意」であり、「民意」で決められたものには盲目的に従うべし、という考えならば、たとえば
選挙の際に、創価学会やその他統一協会など半島系カルト宗教を総動員してゲットした多数票も「民意」が反映された」とみなし、それでも「多数決なので仕方がない」「これが民主主義だ」と思っているわけですか?
 

Re: 質問その1

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月19日(日)21時01分57秒
返信・引用
  > 「やらせタウンミーティング」で税金を使ってむりやり作る世論も「民意」なんですか?

それが多数に支持されれば、結果として民意になります。要するに、多数が支持するか否かが問題であって、現実にそぐわないことをいくらサクラが喋っても、賢い有権者は白けるだけでしょう。

PRは政治に付き物であって、与党なら税金を使える立場ですから、ああした形でPRをして来た訳です。君の支持政党だって、万が一与党になったら同様なことをするでしょう。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

質問その1

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月19日(日)19時19分51秒
返信・引用
  「やらせタウンミーティング」で税金を使ってむりやり作る世論も「民意」なんですか?  

おう!

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月19日(日)19時07分35秒
返信・引用
  気の触れたもんと北チョンに魂を売ったもん(あんただよ)同士で、またあっちでバトルやらかすか?
ええ?パチ屋のおっちゃんよ~
 

Re: 「民意」とは又あいまいな

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月19日(日)18時35分14秒
返信・引用
  民主主義は「民意」で決まるものでしょう?気の振れた四十男の「妄想と願望」で決まるんですか?

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

「民意」とは又あいまいな

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月19日(日)17時12分14秒
返信・引用
  私は貧しくとも自分の理念、信念に沿った生き方をしたいと思っている。うしろめたい気持ちをひきずったまま、あいまいな(それも手前勝手な判断の)民意なるものを基準?にして「愛国心」だの「教育基本法改正せよ!」だのと大上段に、声高に繰り返す人の気がしれない。  

Re: ふふふ、なるほど!

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月19日(日)10時57分6秒
返信・引用
  > パチンコは(なぜか外国籍の経営者比率が異常に多いが)圧倒的多数の国民の支持を得ている、非の打ち所のない「健全」な娯楽である、と
>
> パチンコは日本国の進歩と発展、そして幸福な国民生活に大いに貢献している、と
>
> そして偉大なるパチンコは子供たちの教育そして彼らの未来にとって必要で欠くべからざる産業である、と
>
> ゆーことなんですね?

ということは、民意が決めることであって、民意にそぐわなければ存在意義を失うということです。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

ふふふ、なるほど!

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月19日(日)10時07分16秒
返信・引用
  パチンコは(なぜか外国籍の経営者比率が異常に多いが)圧倒的多数の国民の支持を得ている、非の打ち所のない「健全」な娯楽である、と

パチンコは日本国の進歩と発展、そして幸福な国民生活に大いに貢献している、と

そして偉大なるパチンコは子供たちの教育そして彼らの未来にとって必要で欠くべからざる産業である、と

ゆーことなんですね?
 

妄想と願望の復活

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月19日(日)08時23分20秒
返信・引用
  セルジオさんよ、日本は民主国家ですからね。先ず、君が国民から支持されて国会議員にならないと、議院内閣制である以上首相にもなれません。ところが、君のような人物を国会議員にするほど、日本国民はアホではありませんから、一票も入らないとは言わないが、泡沫候補のどん尻で終わって借金が残るだけでしょう。

次に、多くの国民から好まれ支持されたものを、一個人の「好き嫌い」で縮小することなど不可能です。少なくとも、プロの政治家なら自殺行為として、端から「問題外」です。本当に有害なものなら、縮小の方向に国民の支持が集まり、国会の審議で法案が通過することでしょう。日本は民主国家であり、妄想と願望の権化に過ぎない「哀れな四十男」の独裁国家ではありませんから。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

少し明るい話題を

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月19日(日)06時41分46秒
返信・引用
   昨日、妻と遠出して、鰻を食べました。ところが、その店にメガネを忘れてしまった。帰ってきて、家の近くの喫茶店に入り、持参した文庫本を読もうとして、ポケットにメガネがないのに気付きました。

 このメガネ、100円で買ったものですが、もう何年間も愛用していて目に馴染んでいたので、とてもショックでした。よほど鰻屋にメガネを取りに行こうかと思いましたが、そうするとかなりの時間と労力とガソリンを使わなければならない。

 そんなうつうつとした気分で、コーヒーを飲みながら、何気なく文庫本を開きました。そして、驚きました。文庫本の細かい文字がメガネなしで読めるのです。視力がよくなっているではありませんか。

 最近毎朝、堤防で腕振り体操をしています。背骨が真っ直ぐになり、自律神経の働きがよくなるといわれたからです。血圧や視力回復にもいいといわれて始めたのですが、あるいはその効果があらわれたのかもしれません。

 持参した文庫本は昔買った、大岡昇平の「野火」です。私はこの小説を折に触れて読むことにしています。それにしても、昔の文庫本は活字の小さなこと、これが再び読めるようになるとは、うれしいかぎりです。

 愛着のあるメガネをなくしたのは残念でしたが、そのおかげで、視力回復に気付きました。なくなったメガネに、これまでどうもありがとうと言いたい気持です。
 

パチンコ業界改革法案

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月19日(日)02時13分55秒
返信・引用
  私が総理になったら、所信表明演説でカメラ目線や身振り手振りを使って、まず徹底的にパチンコ業界の問題点を指摘する。 パチンコの依存性、それによる親子関係の損失、学生の不登校、消費者金融や闇金への堕落、なかにはこの間起こったような、注意した親を殺す事件などに発展すること等。そして駅前一等地にパチンコやサラ金のネオンが立ち込めるこのゲロのような腐りきった景観の汚さを国民に問う。さらに明らかな賭博であることを強調し、実際に巧妙な手口で間接的に金を交換している証拠を示す。さらに不透明なパチンコ金の流れを北朝鮮との関連で厳しく指摘する。以上のことを徹底的に言った後、各国家議員へ向けて凄む。「この現状を野放しにしてきた責任は我々国会議員にある。これを改善させる側につくのか?現状維持側につくのか?すなわち、 パチンコ業界側につくのか?それとも国民側につくのか?今すぐ決めろ!」と決断を促す。圧倒的な演説でこの単純な二択の構造に各議員をさらには国民一人一人を引き込み、パチンコ擁護派を業界側だとレッテルを貼る。今までの関係じゃなく、この瞬間からどちら側に付くんだ?と問いかける。

そしてそれを受けてマスコミは連日、私(総理)がいきなりぶち上げたこの問いかけで連日パチンコ特集を組むだろう。もちろん上記の演説時にガンガンマスコミも煽る。マスコミとパチンコ業界の広告収入などを示し、結局マスコミ側もパチンコ業界側なのか?と挑発する。それを受けてマスコミでは討論すべきだと促す。そして討論が始まる。

そこで第二段として間髪いれず、パチンコ業界改革法案を提出する。この法案の骨子はこうだ。

1、パチンコ業界は賭博産業であると明確に定義する。その違法性を無視してきたことを反省し、今後は無視しないと明記する。
1、賭博は公営にしなくてはならないので、公営の特殊法人へ運営体質に変える。
1、当然税金は一切投入しない。純利益は国庫にいれ、社会福祉や国債の利払いに使う。
1、国の金融機関からの資金調達を認めない。
1、大当たり確率や内部仕様をすべて一様にし、低いギャンブル性の機種しか置けないように法できめる。
1、店舗の統廃合・リストラなどの権限は政治任用で決める経営委員会が持つ。
1、上記のように一切税金を投入せずに低いギャンブル性で運営すれば、必ず規模が縮小する。今後10年で市場規模を3分の1以下にする。
1、それぐらいの規模になって市場原理で安定したところでとりあえず様子見でそのままを維持する。運営できなければ当然またリストラ。

このように公営ギャンブルにして規模を縮小させる。単純計算で20兆円が他の市場に流れる。

その資金が成長分野の産業への投資となり、市民レベルではパチンコに費やしていた無駄な金をより価値を生み出すものへと使う。自分への投資であったり、生活費の上乗せであったり。それらの市場も活性化する。パチンコに金を使っても何の価値も生み出さないが、このように金の流れが変われば、新たな投資で従来の市場や新たな市場が活性化し、新たな雇用が生まれ、健全な社会へ発展する。

パチンコに金を使っても未来の日本は発展しない。成長産業や日常生活を支える国内のまともな市場へ金が流れる。パチンコ依存者たちも正常な生活に戻れる。自分自身を見つめなおし、自分の生活向上のために金を使う。生活破綻者が減る。駅前の景観も改善できる。素晴らしい。

なにもパチンコ業界をゼロにするとは言っていない。無法に必要以上に拡大した現状を正常に戻すだけだ。
価値のないものも人間社会には必要である。パチンコは未来の日本人へ何の価値も生まない。だから最低でも今の規模の3分の1ぐらいにはしないといけない。日本の発展にまったく寄与していない産業がこんなに大きくなったら、国にとってマイナスでしかない。
 

子どもが育たない理由

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月18日(土)22時25分40秒
返信・引用
   これはもうひとえに愛情不足でしょうね。愛情があれば、子どもは自然に育つものだと思います。憲法などかえる理由はないと思います。  

日本の教育を荒廃させたのは誰か?

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月18日(土)22時00分2秒
返信・引用
  これは戦前の軍国教育への反動に端を発した、左翼系教育学者の指導が元凶です。残念ながら、御当人さん達は殆どが故人ですから、草葉の陰から「アッカンベー」してますが。彼等は日教組講師団と称して、共産ソ連、共産中国を理想の国と褒め讃え、先生方を洗脳して行ったようです。

終始一貫、資本主義日本をけなし、「そのうち、こんな国は滅びる。こんな経済は破綻する」と言い続けて来ました。ところが実態は全部外れ、全部逆になりました。ソ連は崩壊し、中国経済は資本主義経済になりました。学者先生が説いた理想の民主主義、理想の人間像は何処へ行ったのでしょう。

斯くなる上は、憲法からしっかり見直す必要がありそうです。人間とは何か。自由とは何か。国家とは何か。大人が、それをしっかり認識していないと、子供の教育など出来ません。子供は理屈ではなく、親や先生の行動の全てを肌で感じて育ちます。それこそ教育ではないでしょうか。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

Re: 子どもが可愛そう

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月18日(土)12時10分53秒
返信・引用
  > ずいぶん、威勢がいいですね。
> 私なら、もう少し違った処方箋を考えます。
>
> ○通学路に風俗のチラシを貼るな。

    そのとおりです。通学路だけでなく、全廃は無理としても規制を大幅に強化すべきです。
>
> ○企業は金儲けのために若者を食い物にするな。

  食い物の定義が問題ですが、基本的に賛成です。同時に若者も自助努力に基づき、労働者としての価値を高めて行くことが必要です。
>
> ○若者を無力な消費者にするテレビの宣伝を規制せよ。

  虚偽の内容や誇大広告は規制を強化すべきでしょう。同時に、判断力のある若者も存在する訳ですから、判断力を養う教育も必要です。騙される奴も悪いという「自己責任」の念を重視しないと、体が大人で頭が子供のバカ共を擁護するだけに終わります。
>
> ○小学生に安心してあそべる場所をつくれ。

  そのとおりです。シニア市民がボランティアで子供を守るようなシステム作りなど宜しいのではないでしょうか。勿論一例ですが。
>
> ○親は仕事優先を改め、家庭でかならず子どもと食事をするべし。

  これはサラリーマンには現実的に難しいです。僕も不本意ながら単身赴任ですし、今日はこれから出勤します。明日も出勤するつもりです。仕事が佳境なものですから。
>
> ○少人数学級を実現し、教師を雑務から解放し、子どもと向き合える精神的ゆとりを与えよ。

  財政的な目処が立てば大いに賛成です。但し、不適格な先生が存在するのも事実ですし(積極的に苛めに加担していた教師等)、人選は慎重に行う必要があるでしょう。
>
> ○子どもを受験競争で小学生から塾にかよわせるな。

  これは親の教育権の行使ですから、第三者が批判すべき問題ではありません。逆に、日教組の(悪)平等教育で教育の質が低下し、都会を中心に公立校の地盤沈下が進んだ結果として私立校への進学希望が加速されました。但し、公立の復活が進みつつありますから、事態の好転は期待できます。

>  まだまだ、たくさんあります。まず、大人がこうした努力をすることが先決ではないでしょうか。それをしないで、「愛国心をもて」「親に孝行せよ」などと子どもに強要しても逆効果ではないでしょうか。

そのとおりですね。僕も強制される「愛国心」は拒絶しますが、「国と郷土」に対する素朴な愛情は誰もが普通に持つものだろうと思います。それを「戦争賛美」に結び付けるのは逆に論理の飛躍であり、政治的な臭いがプンプンします。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

大人がパチンコ(違法賭博)を止めれば子供もゲームをやめる

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月18日(土)11時38分50秒
返信・引用
  いきなり急所げりで攻めず、このような軽いチョーク攻撃ならばkeizoさんのよけいな仕事が増えなくてすみそうです。  

子どもが可愛そう

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月18日(土)08時07分59秒
返信・引用
  ずいぶん、威勢がいいですね。
私なら、もう少し違った処方箋を考えます。

○通学路に風俗のチラシを貼るな。

○企業は金儲けのために若者を食い物にするな。

○若者を無力な消費者にするテレビの宣伝を規制せよ。

○小学生に安心してあそべる場所をつくれ。

○親は仕事優先を改め、家庭でかならず子どもと食事をするべし。

○少人数学級を実現し、教師を雑務から解放し、子どもと向き合える精神的ゆとりを与えよ。

○子どもを受験競争で小学生から塾にかよわせるな。

 まだまだ、たくさんあります。まず、大人がこうした努力をすることが先決ではないでしょうか。それをしないで、「愛国心をもて」「親に孝行せよ」などと子どもに強要しても逆効果ではないでしょうか。
 

Re: 日本のふぬけたガキどもにショック療法を与へませう、という法案

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月18日(土)02時41分57秒
返信・引用
  中々評価出来る内容ですね。

> ■教育改革国民会議の提言

> ・子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう

「飼い馴らす」という表現は抵抗がありますが、子供らしい分別の欠片もない子が一杯いますから、これも必要でしょう。

> ・「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う

これなど、セルジオさんの専売特許じゃないですか。

> ・名刺に信念を書くなど、大人一人一人が座右の銘、信念を明示する

発想はユニークですが、普通の人はついて行けないだろうな。

> ・遠足でバスを使わせない、お寺で3~5時間座らせる等の「我慢の教育」をする

今の子供には必要でしょうね。
> ・ 地域の偉人の副読本を作成・配布する

偉人の基準が問題ですが。

> ・ 学校に畳の部屋を作る

畳の部屋で何をするかが問題ですが、具体的な利用方法如何ですね。

> ・学校に教育機関としてのシンボルを設ける

セルジオさんの銅像など如何でしょうか?

> ・有害情報、玩具等へのNPOなどによるチェック、法令による規制
> ・バーチャル・リアリティは悪であるということをハッキリと言う

ひょっとすると、任天堂などが倒産するかも。それも宜しいかも知れません。

> ・団地、マンション等に「床の間」を作る

これは非現実的で、実効性に疑問ありです。物置になるのが見え見えです。

> ・警察OBを学校に常駐させる

いじめ、カツアゲの取り締まりには宜しいかも。ゴロツキ相手じゃ先生に対応を委ねるのは酷です。

> ・文部省、マスコミが1、2週間程度学校で過ごす

文部省(正確には文部科学省、文科省)の亡国役人共に実態を知らしめすには良い機会では。マスコミにも同様の効果があるでしょう。

> ・教育基本法を改正を提起し、従来の惰性的気風を打ち破るための社会的ショック療法とする

改正の具体的内容が問題ですが、今のままで良い訳では決してありません。
>
> <小学生>簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする
> <中学生>簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする
> <高校生>満18歳で全ての国民に1年ないし2年間の奉仕活動を義務づける

共同生活の運営方法如何で効果が期待出来ます。ただ、同じ学校の生徒児童が一緒にならないようにすることを提案します。「いじめ」が持ち込まれる可能性がありますから。指導には<高校生>の奉仕活動を充当する方法もありますね。人選が重要になりますが。

昔は「兵役」がありましたから、男子にはこういった仕組みが社会に存在していた訳です。私的制裁を厳禁するのが前提ならば、大いに賛成です。韓国には兵役がありますから、人気映画俳優やプロのスポーツ選手も例外なく(WBC等で一部例外あり)服します。「連帯責任」を重視すれば、自分のエゴイズムも反省し、本当の大人に生まれ変わるのでは。また、エリートもゴロツキも同じ釜の飯を食うことで、社会的な視野も開かれます。セルジオさんもぜひ参加されては如何でしょう。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

日本のふぬけたガキどもにショック療法を与へませう、という法案

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月18日(土)01時14分22秒
返信・引用
  ■教育改革国民会議の提言

ソース:首相官邸公式サイト
http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/1bunkakai/dai4/1-4siryou1.html

・子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう
・家庭教育について対話できる土壌をつくるため、企業やテレビと協力して古来の諺などを呼びかける
・「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う
・名刺に信念を書くなど、大人一人一人が座右の銘、信念を明示する
・遠足でバスを使わせない、お寺で3~5時間座らせる等の「我慢の教育」をする
・ 地域の偉人の副読本を作成・配布する
・ 学校に畳の部屋を作る
・学校に教育機関としてのシンボルを設ける
・有害情報、玩具等へのNPOなどによるチェック、法令による規制
・バーチャル・リアリティは悪であるということをハッキリと言う
・団地、マンション等に「床の間」を作る
・警察OBを学校に常駐させる
・文部省、マスコミが1、2週間程度学校で過ごす
・教育基本法を改正を提起し、従来の惰性的気風を打ち破るための社会的ショック療法とする

<小学生>簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする
<中学生>簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする
<高校生>満18歳で全ての国民に1年ないし2年間の奉仕活動を義務づける
 

Re: アイリンさん、がんばれ

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月17日(金)19時32分37秒
返信・引用
  >  フィリピンの女性が介護士として活躍している様子が、NHKの番組で紹介されていました。ひょっとしてアイリンさんかな?

多分、その番組ではないと思いますが、
前回ご紹介しました次のページを見ていただくと、
かなり詳しい番組内容がわかります。
「ヘルパー」法改正があって、フィリピンの女性に
頼らざるを得なくなっている日本の実情があり、考えさせられる内容です。

http://plus1.ctv.co.jp/webdoc/2005/0419/01.html

>  私もフィリピンが大好きです。いつか日本に住んでいるフィリピンの人にも声を掛けてみたいと思っています。フィリピンパブも一度覗いてみたい。そのときは、keizoさん、よろしくお願いします。(笑)

私も、現在抱えている問題を解決したら、
今度はフィリピンへ語学の勉強にいきたいなあ、と思っています。
橋本さんの影響が多大です(笑)!!
ぜひ今度、フィリピンパブへもご一緒しましょう。
(奥さんにしかられてしまうかな?)

ところで、今年のゴールデンウイークに友人に頼まれて
バンクーバーでの語学留学体験について公民館のカルチャー教室で
40分ほど話したのですが、そのときの録画を
友人がいろんな写真や音楽などの効果を入れてくれ、
DVDにまとめてくれたのですが、
もらって下さる方にはお送りしますので、
keizovanq@yahoo.co.jp
までご連絡ください。
 

いいですね。

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月17日(金)10時06分16秒
返信・引用
   セルジオ越前さんは、メイドさんをやとっているのですか。教会でスカイとしたというのも面白いですね。私もこんど教会を覗いてみます。いろいろな出会いがありますね。

<いずれも田舎出身の30代の出稼ぎ女性たちですが、美人度は?ですが、大変よく働いてくれる上、マレー系の拈華微笑のスマイルをたやさないのでとてもなごみます(皆家族を置いてひとり出稼ぎにきているわけなのに)。しかも皆さん、私よりもだんぜん正確な英語を使います(涙)橋本さんもたまには「奥さん孝行」でこのようなメイドさんサービスを使われてみてはいかがでしょうか?>

 いいですね。将来セブに半住の折りには、私もぜひ家政婦兼英語の先生としてやといたいですね。日本ではちょっとむりかな。これ以上妻にサービスすると、ますます妻の肥満度が上昇しそうなので・・・
 

地元の

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月17日(金)08時45分40秒
返信・引用
  大きめのカトリック教会を日曜日にのぞいて下さい。きっと英語(またはタガログ語)のミサを行っているはずです。
そしてそこには数十人のフィリピン人の老若男女(地域により若い女性多し)が集まっているはず・・・そこにはホステスさんもいるでしょうし、日本人男性の奥さん、さらにはプロのメイドさんがいたりします。うちの妻はそこでスカウトした?メイドさんに月1回家の掃除をお願いし、いまは4代目ざっと十年間のおつきあいです。とくに一人暮らしのいまはメチャ重宝しています。なまじの主婦では絶対にかなわないレベルの掃除洗濯を徹底的に、しかも短時間にやってくれるからです。なにせヨーロッパや中東にまで出稼ぎする同国の国家的ビジネスですからスキルが違います。いずれも田舎出身の30代の出稼ぎ女性たちですが、美人度は?ですが、大変よく働いてくれる上、マレー系の拈華微笑のスマイルをたやさないのでとてもなごみます(皆家族を置いてひとり出稼ぎにきているわけなのに)。しかも皆さん、私よりもだんぜん正確な英語を使います(涙)橋本さんもたまには「奥さん孝行」でこのようなメイドさんサービスを使われてみてはいかがでしょうか?案外安いですよ。
 

アイリンさん、がんばれ

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月17日(金)07時58分19秒
返信・引用
   フィリピンの女性が介護士として活躍している様子が、NHKの番組で紹介されていました。ひょっとしてアイリンさんかな?

 私もフィリピンが大好きです。いつか日本に住んでいるフィリピンの人にも声を掛けてみたいと思っています。フィリピンパブも一度覗いてみたい。そのときは、keizoさん、よろしくお願いします。(笑)
 

re;魅力的なフィリピン

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月16日(木)21時34分10秒
返信・引用
  橋本さん、こんなことを言うとちょっとはずかしいのですが、
ひょんなきっかけで、もう十数年前から、
私はフィリピンパブ通で、フィリピンの明るいお姉さんたちがだいすきです。
ひいきになった、アイリンさんは
ルソン島南部のビサヤ地方のソルソゴン出身で、
これは半分冗談なのですが、彼女に誘われ嫁さんを捨て、
日本を脱出し、ソルソゴンで暮らそうと思ったほどでした。

アイリンさんは、その後日本で頑張り、
「介護士」の資格を取り、子供の成長を楽しみに
毎日、元気ではらたいています。
なんと、この前その様子が、「NNNドキュメント’05」
で、全国放送で放映されました。
私も、酔っ払いの役で出ることになっていたのですが、
当日、あいにく都合が悪く出演できなかったのは残念でした。

http://plus1.ctv.co.jp/webdoc/2005/0419/01.html
 

魅力的なフィリピン

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月16日(木)09時37分41秒
返信・引用
   私が英語を勉強しているのも、半分は海外脱出の準備です。私の場合は海外に永住と言うことではなく、1年の1/3くらいは日本にいて、残りを海外で暮らしたいと思っています。

 海外に行くと心がリラックスします。それだけ日本が息苦しいということでしょうか。今後益々息苦しくなりそうです。その限界を超えたら、海外永住ということになるかも。

 選択肢のひとつとして、フィリピンのセブを考えています。温暖な気候で、自然も美しい。それに一応社会的インフラがととのっえいて、犯罪も少ないので安心です。それに英語が通じるので便利です。しかし、何と言っても魅力的なのは物価が安いことでしょう。

 フィリピン平均年収  20万
 日本の平均年収   600万(フィリピンより30倍)

 今年の夏、セブでお世話になった現地在住のIさん夫婦は年間72万円で生活しているそうです。これでも現地の人よりはよほどよい家に住んで、おいしいものが食べられます。

 やはり、今年セブの語学学校で知り合った男性が、今、セブに行っていますが、現地で英語の家庭教師をやとって勉強しているそうです。昨日のブログにこんなことを書いています。

< とても親切なティチャー、一発で気に入りました。一日付き合ってくれて英語の勉強を教えてくれて観光案内までしてくれて一日300ペソス(700円)ポッキリですよ!皆さん信じれますかぁ~!>

 おなじお金が、フィリピンへ行くと何倍もの威力を発揮します。日本で稼ぎ、フィイリピンで使うのが、一番賢いお金の使い方かも知れません。

 もっとも、これからフィリピンも変わっていくと思います。先日の朝日新聞の記事によると、アメリカの企業がフィイリピンに熱い目を向け始めたようです。フィイリピンの強みは、「英語」です。小学校から学校の授業は英語が原則です。だから小学生でも英語が話せる。向学心も結構あるので、これから国として伸びるかも知れません。私は応援してやりたい気持でいっぱいです。
 

壺三内閣の本性見たり

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月16日(木)07時34分56秒
返信・引用
  海外脱出の準備をしておいて良かった!

<教育基本法>単独可決に、首相の「意向」強く働く
 教育基本法改正案の衆院審議で自民・公明両党が与党単独で沖縄知事選前の特別委員会採決に踏み切ったのは、安倍晋三首相の意向が強く働いた結果だった。仮にこのまま採決を持ち越せば国会全般が野党ペースとなり法案の成立が危うくなりかねない、との危機感から、採決先送り方針を転換。当面の混乱覚悟で正面突破に動いたとみられる。【高山祐、西田進一郎】
(毎日新聞) - 11月16日3時15分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061116-00000016-mai-pol
 

ご感想ありがとうございます

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月14日(火)21時23分37秒
返信・引用
  渚さん、橋本さん;

拙論へのコメントやご意見、ありがとうございました。
たいへん参考になりました。
「独り言」も拝見しましたが、「イデア論」でヨーロッパ語の言語構造を
説明する人もいたのは驚きでした。
「抽象名詞」にtheのような冠詞をつけ、人格化、実在化することの背景には
「イデア論」があるとの説のようなので、私の指摘とは、ちょっと異なるのですが
こういうことを言う人がいるだけでうれしくなりました。

いずれにせよ、私の場合は、単なる「思いつき」の段階に過ぎないので、
もう少し理屈をこねてみようと思います。

セルジオさん;

手かせ足かせをはめられて、だいぶ窮屈なご様子ですが、
まだまだお行儀悪くても私は大丈夫です。
でも、ゆきすぎると、風紀委員の鉄槌が下ると思いますので
ほどほどにお願い致します。

>統一協会と層化、まさにウインウイン(つーかチ○ンチ○ン)の素晴らしいパートナーシップですね。
おあとがよろしいようで。

私は、民主主義社会の「選挙システム」そのもののなかに、
「宗教」を隠れ蓑に利用する、隠然とした独裁者を許す構造があると考えています。
橋本さんの小学校時代のいじめっ子の話ではないですが、
例えばクラスの中に一人の暴君がいたとして、
絶対に逆らわない「忠臣」が全体の1割程度いてこまめに暗躍すれば、
そのクラスは表向きには「民主的」に容易に支配されてしまうんだと思います。
今の日本にもそれが起こっているんだと思います。
どうしたらいいんでしょう?
セルジオさんにはこの問題の解決策をお聞きしたいところです。
 

re:名物 ソースカツ丼

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月14日(火)06時48分5秒
返信・引用
   そうです。実は「ヨーロッパ軒」はカツ丼を最初に売り出した店なんです。創業者が日本人の為に創案したのがこの「カツ丼」でした。それは大正時代のことでした。

 私の母も、またその母も、おなじカツ丼を食べていました。まあ、国宝級の文化財といってもいいのです。渚のバラードさんの紹介してくれたヨーロッパ軒のHPを見ていたらよだれがでてきましたよ。渚さん、こんど一緒に食べに行きましょう。
 

re:大胆な仮説(または妄想)

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月14日(火)06時41分20秒
返信・引用
   面白いですね。おおいに興味があります。
「不定詞とは何ぞや」という問をたどっていくと、ネイティブ自身も気がつかないような彼らの心の秘密にたどりつくのではないでしょうか。
 私も少し研究してみたいと思います。
 

安部は最後の将軍にふさわしい面だ

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月14日(火)01時09分59秒
返信・引用
  なごやかな話題が続くあいだに突然嵐のように割って入ります。

面白い情報を耳にしたもので。ブッシュが中間選挙で敗れ、福島県知事選も敗れて、与党があわてふためいているらしい。とくに自民右派の層化シンパと非シンパ(層化アレルギー)派との亀裂が深刻になってきたため、公明党も今後どのように自民と連携して(操って)いくかをめぐり、深刻に悩んでいるらしい。

そんな折、機を見るに敏な子鼠じゃなかった小泉一派が、郵政民営化反対派の復党問題を口実に、自民を割って出て前原グループと合流をもくろみ、統一協会マネーで新政党を作る動きが水面下で急速に進んでいる。 さらに、これは参院選前後の時期にずれこむと思われるが、そこへ公明党が合流して「スーパー政党」を作る構想も現実味を帯びてきた。

統一協会と層化、まさにウインウイン(つーかチ○ンチ○ン)の素晴らしいパートナーシップですね。
おあとがよろしいようで。
(keizo様コードぎりぎり大丈夫・・・ですよね?)
 

名物 ソースカツ丼

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月14日(火)00時09分1秒
返信・引用
  橋本さんの御紹介に釣られ、福井の「ヨーロッパ軒」総本店をネット訪問しました。URLは以下のとおりです。

http://homepage2.nifty.com/yo-roppaken/

本当に美味しそうですね。「B級グルメ」を自称する僕としては、是非食べてみたいです。橋本さんに倣って「青春切符」で行って見ましょうか。こちらのサイトで初めて知りましたが、創始者の高畠増太郎さんは、早稲田鶴巻町で大正初期に「ソースカツ丼」の店を出されたとか。以下は引用です。
-------------
大正6年に『(早稲田)正門前の鶴巻町を少し行った右側』の
『余りパッとしない食堂』でソースカツ丼を食べた
という早稲田高等予科(当時)学生の証言もあり、
また、『どんぶり探偵団』は、
その食堂の主人・高畠増太郎さんの存在をつきとめている。

ドイツでの料理修行を終えた高畠さんは、大正2(1913)年に
東京で開かれた料理発表会で創案のソースカツ丼を披露し、
早稲田鶴巻町の自店で売り出していたのだ。

カツ丼の先駆者は高畠さんなのである。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

RE:大胆な仮説(または妄想)

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月13日(月)23時43分57秒
返信・引用
  これだけ考えていらっしゃるkeizoさんには、敬意を表さねばなりません。英語を教える立場がおありになるからでしょうか。この領域に踏み込むには、「何故英語をやるか」、「自分にとって英語とは何か」という、英語への取り組み姿勢を再認識するプロセスが必要だし、それは畢竟「己の生き方」に直結するのだと思います。

思うに、keizoさんの問題提起は「英語」ではなく「英語学」の領域ではないでしょうか。英語という一言語の論理的構造と、背景にある思想を解明しようという「知的探求」の実践なのだろうと思います。

この辺り、僕だったら絶対に興味を持たない事柄です。僕にとって、「英語はコミュニケイションの一手段に過ぎない」という認識が全てであり、外国人と意思疎通を図るには単数名詞に冠詞を付け、動詞には原形があって人称や時制に応じて適切な変形を加える必要がある。それは考えている間は駄目で、反射的に口を吐くまで反復練習あるのみだ、という"practical"な立場で対応します。結局、英語に求めるものの違いでしょうね。今度、英文で投稿してみますね。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

大胆な仮説(または妄想)

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月13日(月)18時58分57秒
返信・引用
  1・なぜいちいち名詞の前に冠詞を付けるのか?
2・なぜ名詞には単数形・複数形があるのか?
3・なぜ可算名詞・不可算名詞の区別があるのか?
4・なぜ「三人称単数のS」が必要なのか?
5・動詞の「原形」とはなんなのか?
6・なぜ助動詞のあとの動詞は「原形」にならねばならないのか?
7・なぜ「to 不定詞」には「原形」が用いられるのか?
8・そもそも、なぜ「不定詞」というのか?

英語を教えている先生の中で、
日本語になくて、英語にだけある上のようなルールに対する問いに
生徒が納得するような明快な答えを出せる先生は
あまりいないのではなかろうか?

多くの先生は、「そんなことに深い理由はない。
とにかく英語の規則はそういう風になっている。
いちいち、そんなことは気にせずに、ただ覚えろ。」
と対応するのがほとんどなのではなかろうか?

正直言って、私も塾講師として、英語を教えている立場なのだが、
これらの問いそれぞれに対して、
「こじつけ」に近い答えしか言ってこなかったように思う。
つまり、そうでなくてはならない「絶対的理由」が自分でも
よく分らなかったのである。

おそらく、このことはネイティブの英語の先生に聞いても、
はっきり答えられる人は少ないのではなかろうかと思う。
とにかく、ネイティブ感覚からすると「ヘン」だから、
という答えしか返ってこないことが多いのではなかろうか。
(その証拠に、私がカナダでの3ヶ月の語学留学の期間通った教室では、
(7,8名の日本人、韓国人の若者がほとんどのクラス)
文法事項で生徒がネイティブ先生に質問すると先生は
「とにかくそうなっている」と答えることが多く、
なっとくいかなそうな顔をしている質問者が気の毒に思い、
私が分っている場合には、お節介にもその説明をしたのをきっかけに、
文法的な質問があると私がいつも文法の説明をすることになってしまい、
いつのまにか文法に関しては「師範代」にさせられてしまった)

しかし、橋本さんの英語に関する日記が発端になって
大西泰斗さん本をもう一度目を通し、「a と the」の明瞭な違いを再認識し、
橋本さんの「a= one of」以降のここでの議論に刺激され、
もう一度、上記の問題に対する明快な答えを出すことにトライしてみた。

これは、単なる私の妄想か、思い違いかもしれないが、
(また自分が知らないだけで、以下のことはとっくに誰かが
言っていることなのかもしれないが・・・)
これらの問いは、実は、ひとつながりの問題であり
たった一つの原理---つまり、英語そのものの中に反映した「世界観」---
を仮定することによって統一的に説明できるのではないか、
という仮説を思いついたのである。

この「仮説」を思いつくきっかけとなったのは、先ほどの8番目の問い
>8・そもそも、なぜ「不定詞」というのか?
の答えが、ネット上にないかと思い、検索してつぎのページを発見し
http://www4.point.ne.jp/~granblue/index.htm
http://www4.point.ne.jp/~granblue/grammar4.htm
この問いに対して、思いがけない答えを得たときである。
(多分相当の英語の達人でも、ここまでのことはご存知ないのではないかと思う)

詳しくは、該当ページをお読み頂きたいが、ここには、
不定詞(infinitive)は実は英語の中には存在せず(ドイツ語やフランス語にある)
言ってみれば、英語における「原形」に該当し、
まだ、この世の事柄として起こっていない場合に使う動詞なのだそうだ。

これを読んで、私は英語を含めヨーロッパの言語の最も本質的な部分は
次ぎのような世界観が反映しているところであり、
そのことが、日本人には感覚的になじめない、名詞や動詞のルールと
なっているのではなかろうか?と考えた次第。

つまり、infinite(不定)の世界とは、
とは文字どうり、漠然として抽象的な世界であり
(「あの世」「イデアの世界」「本質世界」「観念の世界」「精神世界」)
そこでの物事はすべて時空を超越したinfineな事柄である。

そしてinfineの世界の事柄がこの物質世界(finiteの世界)において「受肉化」し、
「具体化」し「個別化」し時間(過去・現在・未来)や
空間(人間関係=人称)の中に確固とした位置を占める。
うまく言えないのだが、ほぼ、こういった世界観となるのではないだろうか。

動詞に「原形」(infiniteの世界の事柄)が存在し、
「3人称単数のS」(finiteの世界の事柄)が必要とされ、
(ヨーロッパ言語の多くは、人称別の活用形がある)
名詞に冠詞(finiteの世界の事柄)が必要とされ、「具体化」「個別化」の度合いを
明瞭にする必要から、「a や the 」や複数形が存在するのは、
すべてこの世界観(finiteの世界の物事はinfiniteの世界の事柄が「具現化」したもの)
を仮定することによって、統一的に説明できるように思えてくる。

He is just friend. と女の子がいったのは、「観念の世界」の「友達のようなもの」
という意味としてとらえると、納得できるようなきがするのである。

もう少し、具体的な説明が必要ですが、ちょっと疲れてしまったので、
今日はここまでにします。
 

he is just friend

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月11日(土)19時23分42秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは!
実を言うと、今日、昼間から宴会がありまして
すっかり酔っ払って帰ってまいりました。
で、セルジオさんの

>"She is my friend."が間違っているとは思わないが、ネイティブの英語としては平板すぎる。He is my boyfriend.はありえますが、女同士の場合は(レズでない限り)"She is a friend of mine."の方がより自然な英語だと思う。

を拝見して思い出したことがあります。
ホームステイ先で、その家の娘が、男の友達を家に連れてきたところに出くわし、
私は、彼女に

Is he your boy friend?

と質問したところ、

No, he is just friend.

と言ったように聞こえました。
(つまり just a friend とも just my friend とも言わなかった)
このあたりに、抜き差しならない名詞に対する
ネイティブ感覚(英語文化特有の論理)があるような気がします。
今日は酔っ払ってしまったので
できれば明日、この辺のところを書いてみたいと思います。
 

残念ながら時間が・・・

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月11日(土)07時48分15秒
返信・引用 編集済
  みなさん、おはようございます。
「英語」の話題に付き合ってくださってありがとうございました。

a friend of mine問題に関しては
日常のコミュニケーションレベルの問題としては
パレートの法則を適用して「どうだっていいじゃないか、シンプルに行きましょう」
という渚さんのご意見も、一理あると思いますが、
「英語の論理」としての問題となると、
パレートの法則で言うと2割の最も重要な部分となる問題なのではないかと思います。

残念ながら、今日は橋本さんと同様、これから出かけねばならず、
多分こういうことなのではないだろうか、という仮説が
私の中でほぼできあがっているのですが、
それを書いている時間的余裕が、ちょっとなくなってしまいました。
また今度、ということで・・・。

それから、セルジオさんも渚さんも、
急所攻撃だの股間が腫れただのと、まったくお下品でナンセンスなことを
書いてしまったため、アホらしくなって、
この掲示板に、近づいてくれなくなってしまったのではないかと、
密かに気を揉んでいたのですが、
そうではなさそうなので安心致しました。
これからもよろしくおねがいい致します。
 

ちょっと、旅行に

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月11日(土)05時33分0秒
返信・引用
  みなさん、ありがとうございます。

 今日は朝6時頃から家族4人、長女の車で大阪に遊びに行きます。それから御在所の湯の山温泉に泊まります。お天気が心配ですが、明日は御在所岳に登りたい。しばらく、ここを留守にします。
 

She is a friend of mineって言いますよ

 投稿者:セルジオ越前  投稿日:2006年11月11日(土)02時14分21秒
返信・引用
  仕事の関係でカナダやニュージーランドの女子大生と毎日会話していますが、写真を見て「これ誰?」と聞くと、Oh, she's a friend of mine.とフツーに返ってきます。"She is my friend."が間違っているとは思わないが、ネイティブの英語としては平板すぎる。He is my boyfriend.はありえますが、女同士の場合は(レズでない限り)"She is a friend of mine."の方がより自然な英語だと思う。ある女性を目の前にしてShe is my best friend.と第三者に紹介するのは、これもフツー。  

She is my friend.

 投稿者:渚のバラードメール  投稿日:2006年11月10日(金)21時09分52秒
返信・引用
  お二人の英語談義が盛り上がっておりますが、僕の英語体験に基づいて言うと、「彼女は私の友人です」という日本語を英語にする場合、"She is my friend."以外の英文は先ず考えられません。

"She is a friend of mine."は40年前の中学生の時以来お目にかかっておりません。"She is one of my friends."に至っては、「彼女は私の友人です」という意味で使われることは先ずあり得ません。敢えて「沢山いる友人の一人に過ぎない」ということを強調するための表現です。

逆に、"She is one of my best friends."は使います。「彼女は親友の一人さ」という具合です。Practical English は結構いい加減なものです。ネイティブの連中だって、文法なんか無視ですよ。我々が文法など考えず日本語を話すのと同じです。"Take it easy!"で参りましょう。

http://plaza.rakuten.co.jp/withmyson/

 

Re: a friend of mine

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月10日(金)14時39分47秒
返信・引用 編集済
  > google で検索した結果、次のような件数になりました。
>
>  one of my friends   2,250,000
>   a friend of mine    4,160,000
>   my friend           33,000,000
>
>  これでみると、one of my friend よりも a friend of mine のほうが、よりポピュラーなようですね。ところでこの両者の意味はどう違うのでしょうか。私の解釈では、「a =one of」 なので、

「独り言」を拝見しました。
googleを利用する英語学習法、初めて知り、たいへん参考になりました。
本当に、「生きた表現」が学べますね。

ところで、a friend of mine についてのご高説、興味深く拝見致しました。
>
>  a friend of mine = one of my friends of mine
>
>  ということになります。つまり、「私のもの」という大集合のなかに、「私の友人たち」という小集合があって、その小集合のひとつの要素(one)なわけです。この解釈はどうでしょうか。

これは多分、橋本さんのおっしゃるとおりですね。

私は、 a friend of mine = one of friends of mine =one of my friends

つまり mine = my friends と解釈したため、
a friend of mine = one of my friends とほぼ等しいはずなのに
若干ニュアンスが異なるのは何故か?と思ってしまったのです。

橋本さんのように、mine のさすものは
私の持っている父や母や兄弟や先生や上司や部下等々の
あらゆる所有物(大集合)と考えないと行けないのでしょうね。

そう考えると、

He is a friend of mine は

「私には、いろんな人間関係を取り結んだ人々がいるが、
その中で彼は「友達」という人間関係を結んでいる人間である」
という意味が生ずるのではないかと考えましたがダメでしょうか?

したがって

He is one of my friends。

とは根本的に意味が異なり、こちらは
「私には(特定できる=つまりmyはtheとおなじ)複数の友達がいるが
彼はそのうちの一人である」
という事になり、本質的に意味が異なってくるのではないかと思いました。
 

『「超」英語法』のポイント

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月10日(金)14時06分28秒
返信・引用
  > 「超勉強法」は私も大変熱心に読みましたよ。keizoさんとは、読書体験がとてもよくにていますね。2000年5月14日の橋本日記から引用します。

橋本さん、コメントありがとうございました。

多分、橋本さんもお読みになっていると思いますが、
野口さんが『「超」英語法』の中で、特に強調されていた事は、
インタビューの中にも

<また、多くの人は「英語が話せるようになりたい」と思っているようですが、この考えは間違いです。聞くことができれば、自動的に話せるようになります。相手の言うことが完全にわかれば、それに賛成したり反対したり、また相手の言葉を繰り返して言うだけで、会話が進行するからです。また、相手の言い回しを真似れば、正しい表現方法もできるようになります。

ですから、実用的な英語を身につけたいと思う人は、聞く訓練だけを徹底的にすべきです。ただし、最低2年間は継続する必要があります。私自身は、留学から帰ってから後、海外の講演などで英語を話す場合に備えて、FEN(現在はAFN)の夕方のニュース解説の番組を録音して、それを通勤の電車や車の中で聞くという勉強を数年間続けました。この方法なら、忙しい人でも時間を有効に活用することができます。>

とあるように、
「実用的な英語を身につけたいと思う人は、聞く訓練だけを徹底的にすべき」
という事です。

これは、当然といえば当然の指摘なのですが、
日本の英語教育では、おそらく、このことを心底理解して
英語指導をしている先生は少ないのではないかと思います。

読めるのに聞けないというのは「聴覚障害」があるのと等しいのだという事を
私はカナダでの体験でつくづく身にしみました。
せっかく、現地での俳人のサークルに招かれたのですが、
ディスカッションに加わっても、白熱した論議を
聞き取れないという理由でストップをかけるわけにも行かず
たいへんもどかしい思いをしました。

ただし「フレンズ」のような英語を極めるということと
「実用レベル」のリスニング力をつける事とは
ちょっと違うと考えているのですが、
このことはまた今度書かせていただきます。
 

a friend of mine

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月10日(金)06時22分41秒
返信・引用
  google で検索した結果、次のような件数になりました。

 one of my friends   2,250,000
  a friend of mine    4,160,000
  my friend           33,000,000

これでみると、one of my friend よりも a friend of mine のほうが、よりポピュラーなようですね。ところでこの両者の意味はどう違うのでしょうか。私の解釈では、「a =one of」 なので、

 a friend of mine = one of my friends of mine

 ということになります。つまり、「私のもの」という大集合のなかに、「私の友人たち」という小集合があって、その小集合のひとつの要素(one)なわけです。この解釈はどうでしょうか。

 ところで意外なのは、my fridend のヒット数がダントツに多かったことです。つまり、ネイティブたちはこれを普通に使っているようです。したがって、この表現も情況につかうことができそうです。これについて、少し不思議だったのですが、これは、

 my friend = my friend (of mine)

 と考えていいようですね。つまり「of mind 」が省略されたと考えるわけです。さらにこの場合、「my」には「the」に通じる「特定の」というニュアンスがあるようです。したがって、「She is my friend.」は一般的な情況では使えないいう風に考えてみました。これについて、次のような文献がありました。

----刀祢先生の英語なんでも質問箱----

Q:「昨日友だちと映画に行った」を“I went to the movies with my friend yesterday.”と書いたらmyをaに直されました。どうしてでしょう? 僕の友だちなのに。(17歳・男・神奈川県)

A:このまちがいはけっこう多いようですね。友だちのことをこの文ではじめて話題に出すのなら、... with a friend (of mine) のほうが自然です。なぜなら、my、yourなどの所有格にはtheの意味が含まれていることが多いからです。

 いきなりI went to the movies with the friend.と言うのは変ですね。同じように、いきなりmy friendと言うのも不自然なのです。ただし、例外があります。

I went to the movies with my friend Bill.のようにすぐ後に特定の名前を言うとき、つまり同格の名詞があるときはmy friendが正しいのです。

 英語では、I put my hand in my pocket.のように、ものにいちいち所有格をつけることが多いのは確かです。たとえばエレベータで「この階で降ります」というのを This is my floor.と言ったり、「運転免許の試験を受けた」をI took my driving test.と言ったりするのも、はじめて聞くとちょっと違和感があるかもしれません。でも、私たち日本人は意識過剰になって、逆に所有格を使いすぎてしまうことがあります。

「僕も車を買いたいなあ」をI want to buy my car.と言うと、native speakerには「すでに自分のものになっている車をなぜ買うのか?」と思われます。

I want to buy a car.が自然な言い方です。「仕事をさがしています」を
I'm looking for my job.と言うのも変です。さがしている仕事は、まだ自分のものになっていないのですから、I'm looking for a job.が自然なのです。

▼回答者プロフィール
刀祢 雅彦(とね まさひこ):PRODIGY英語研究所所長。駿台専任講師。
主な(共)著書『前置詞がわかれば英語がわかる』(ジャパンタイムズ)、
『システム英単語』『システム英熟語』(以上、駿台文庫)、
『英文法・語法問題アップグレード』(数研)など。NHK英会話テキストにも執筆。
造形家・イラストレーター。

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超勉強法

 投稿者:橋本裕  投稿日:2006年11月 9日(木)22時37分41秒
返信・引用
  「超勉強法」は私も大変熱心に読みましたよ。keizoさんとは、読書体験がとてもよくにていますね。2000年5月14日の橋本日記から引用します。


-----パレート法則------

 野口悠紀雄さんが「戦略的超勉強法」のなかで、「勉強のための基本3原則」を書いている。
(1)勉強のやり方を工夫して、勉強を面白いものにしよう。
(2)部分から積み上げるのでなく、全体から理解しよう。
(3)8割できたら先に進もう。

 (3)についてさらに、「2割を制するものは、8割を制する」というパレート法則が適用できる。そうすると、結局、勉強で大切なのは2割で、それをマスターすれば次ぎに進めばよいということになる。

 イタリアの経済学者パレートは、「社会全体の2割程度の世帯が高額所得世帯であり、彼らの所得や富が社会全体の所得や富の8割程度を占めている」という法則を見いだした。この現象は経済的な富の偏りだけでなく、いろいろな場合に当てはまるところから、「パレート法則」と呼ばれるようになったようだ。

 たとえば学級運営の場合、実質的にそのクラスを支配し動かしているのは2割ほどの生徒である。その2割を制すればほぼ全体(8割)を制することになる。あるいは職員の場合でも、2割ほどの人が8割ほどの仕事をする。このように一部の人に仕事量が偏る。

 パソコンのソフトでいえばたくさんの機能が付いているが、実際はその中の2割ほどマスターすれば、全体の8割はカバーできる。そして8割カバーできれば先に進むのには充分だというわけである。

 読書の場合でもたとえば100ページの本の中で、重要なことは20ページに書かれてある。すべて読む必要はなく、その2割をマスターすればよい。それではどうしたらその2割を選別できるか。それには「全体を俯瞰すること」が大切で、細部にこだわっていては大切なことが見えない。全体を俯瞰した上での重点に的を絞った「パラシュート学習法」が有効だという。

 野口教授のいう「超」勉強法とはこうしたものだ。さすが勉強の大家だけある。勉強法ばかりでなく、人生術のツボも押さえていると思った。彼はインターネットの第一人者でもある。詳しくは、私のリンク集の野口悠紀雄Online 2000> 「超」をめぐる考察 -->「ビジネスマンのための戦略的「超」勉強法」を見て欲しい。

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英語学習におけるパレートの法則

 投稿者:keizo  投稿日:2006年11月 9日(木)15時26分20秒
返信・引用
  私の英語学習においてここ数年、最も影響を受けた3人の先生を挙げるとしたら
一人は、先に挙げた大西泰斗さん、二人目は、言語学者の鈴木孝夫さん
そして、「超勉強法」などで有名な野口悠紀雄さんです。

鈴木さんのことはまた後日書かせていただこうと思うのですが、
野口さんが私の英語学習にとって、大きな存在になったのは
つい最近の事で、2年ほど前『「超」英語法』が出版され
それを読んでからのことです。
私はいい歳をこいてバンクーバーへ英語の勉強へ行ったわけですが、
その大きな目的は、塾講師として、

1)日本人はなぜ英語をやらねばならないか?
2)やらなければならないとしたら、先ずどのような英語なのか?

という事に自分なりの答えを出すためだったのです。

1)については、カナダへ行く前に、すでに鈴木孝夫さんの意見に
大きく影響されており、それを確認しに行ったようなものなのですが、
2)については実際、現地体験してみるまでは、
結論は出せないと思っていました。

帰国直後、ちょうどタイミングよく野口さんの『「超」英語法』が出版され、
読んでみると、自分の体験を通じ漠然と形になりつつあった
英語勉強法の考え方が体系的にしかも具体的に述べられており、驚きました。

もう、自分が要らぬことを説明するより、野口さんの意見を
紹介したほうが手っ取り早いと思い、
帰国後、英語の勉強方法を聞かれると、
反射的に、この本を紹介してしまうようになりました。

今日の橋本さんの日記<11月9日(木)80点主義のすすめ>で
「パレートの法則」を紹介され、

>これは英語の勉強にも言える。1万語を収納した英語辞書があるとする。これをすべて憶えるのはたいへんなことだ。しかし、パレートの法則を知っている人は、基本的な2千語を憶えるだけで、英語表現の8割がカバーできることを知っている。これで労力が1/5になる。

という事をおっしゃっています。

野口さんも、これとほぼ同じことをおっしゃっていますので
紹介させていただきます。

@@@@

http://www.eigotown.com/culture/interview/noguchi/interview_p1.shtml

早稲田大学教授 野口悠紀雄氏 インタビュー
Professor: Yukio Noguchi

「勉強を続けるために最も大事なことは、“好奇心”を忘れないことです。それがあれば、年齢に関係なく力を伸ばすことができます」

『「超」整理法』『「超」勉強法』といったミリオンセラーの著者である野口悠紀雄氏。2004年はアメリカのスタンフォード大学に客員教授として招かれた。それに先立って、『「超」英語法』という著書をまとめている。スタンフォードから帰ってきた野口氏に、アメリカでの体験や効果的な英語学習の方法についてうかがった。


Page 1:英語の勉強は「八割原則」
Page 2:日本人の学生は、やはり英語が苦手?
Page 3:野口氏オススメの英語の勉強に適した素材

Q. 渡米前の英語学習の目的は?

A. 仕事をする上ではあまり必要がない「不正確な英語」を勉強しようとしたのです。

大学の講義などの仕事上ではいつも「正確な英語」を使っているので、正確な英語を使えれば、コミュニケーションにそれほど問題はありません。しかし、例えば映画を見ようとすると、スラングや崩れた表現が出てくるので、正確な英語を知っているだけでは対処できません。

例えば、大昔のことですが、アメリカでガソリンスタンド(アメリカでは「ガスステーション」と言いますが)に入ったとき、スタンドの従業員に "Glass?" と聞かれ、何度聞いても何のことかさっぱりわかりませんでした。相手が窓ガラスをふく仕草をしたのを見て、ようやく「ガラスをふきましょうか?」と言おうとしているのだとわかったのです。しかし、窓ガラスはwindshield というので、これは正確な英語ではありません。

こういう英語は、勉強したところで実際の役に立つわけではありません。私は「八割原則」と呼んでいるのですが、ありとあらゆる英語を聞いて全部を理解しようとするのではなく、八割わかったところで先へ進むほうが効率的です。
 

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